『分かれ道ノストラダムス』の感想

小説推理 2015年 09 月号 [雑誌]

小説推理 2015年 09 月号 [雑誌]

小説推理 2016年 06 月号 [雑誌]

小説推理 2016年 06 月号 [雑誌]

双葉社の月刊誌「小説推理」の昨年9月号から連載開始した深緑野分の第2長篇『分かれ道ノストラダムス』が先月末に発売された6月号で完結した。連載中、「小説推理」は毎号買ってはいたものの途中で積ん読状態になっていたので、今日、連載の最初から通しで全部読んでみた。
で、読了後すぐTitterで次のように呟いた。

今日はみどりの日なので、深緑野分『分かれ道ノストラダムス』を、最初から通して全部読みました。『分かれ道ノストラダムス』の少年少女は『オーブランの少女』の少女たちや『戦場のコックたち』の少年たちと並ぶ印象深さで迫ってきます。傑作。

深緑野分の過去の作品、特に『戦場のコックたち』を読んだ人が『分かれ道ノストラダムス』を読むと、全然雰囲気が違うことに戸惑うかも。でも、世界が綻び壊れていく中で必死にもがきながら生きていく人々を描いていて、決して自暴自棄にも厭世的にもならない逞しさが、深緑野分にはあります。

「傑作」と言うのではなく、傑作であることが伝わるような感想を述べるのがいいのだが、残念ながら『分かれ道ノストラダムス』が傑作たる所以をうまく言葉にすることができない。
で、他の人の感想文や書評を参考にしてみようと思って検索してみた。
…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
あ、あれ?
『分かれ道ノストラダムス』の感想がヒットしない……。
よってこの感想文はこれにて終了!
……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………。








気を取り直して、作者自身のコメントを引いておく。

『小説推理』さんで連載中の「分かれ道ノストラダムス」という、意味不明な小説があります。最初は恋愛小説というお題のはずだったのに、なんでこんな話になっちゃったんだろうっていう。

「意味不明な小説」とはちょっとひどい言い方だが、確かに出だしから中盤にかけては雲をつかむようなところがあって、去年の年末くらいには「この小説、この先どういう方向に進むのだろう?」と首を傾げたことを思い出した。特に連載第1回では平行世界の話題が出る一方で殺人事件が起こっていたので、これはSFなのかミステリなのか皆目見当がつかなかったくらいだ。
最後まで読み終えてみると、ジャンルすら不明なカオス(混沌)の中から徐々にコスモス(秩序)が立ち現れてくるという趣向もあったのではないかと思われるので、先に引用した「意味不明な小説」というフレーズは一種の韜晦ではないかと疑ってみたくもなる。作者本人が言ったことだからと言ってあまり信用しないほうがいいのだろう。
さて、もし『分かれ道ノストラダムス』に「カオスからコスモスへ」という狙いがあるのだとすれば、未読の人に対して「結局、この小説はどういうジャンルに属するのか?」ということを明かすのは好ましくないだろう。これはSFだったのか、ミステリだったのか、それとも別のジャンル小説か、非ジャンル小説なのか……何も言わないことにしよう。
ただ、この小説が青春小説の要素を多く含んでいるということは、言ってしまっても差し支えないだろう。この小説の主人公は間もなく16歳の誕生日を迎える少女であり、彼女が中学生の頃に思いを寄せていた少年の三回忌から物語が始まるのだから。
「青春小説としての『分かれ道ノストラダムス』」という切り口なら、この小説の属するジャンルに触れずに感想を述べることも出来るのではないか、と一瞬思ったのだが、よく考えてみればそれは「青春小説としての『時をかける少女』」や「青春小説としての『タイム・リープ』」について語るのと同じくらい難しいことに気づいた。
よってこの感想文はやっぱりこれにて終了!

読み初め

今年の読書は『真実の10メートル手前』から始める予定だったのだが、ついふらふらとマンガに流れてしまった。後悔はしていない。
年末に知人に勧められて買った本で、作者についても作品についても全く予備知識なしに読み始めた。
SF、ファンタジー系のショートコミック集だが、それぞれ「Part A」と「Part B」がセットになっているという独特の構成になっている。一話限りではなくすべてがそうなっている作品集というのは初めて読んだ。マンガだけではなく小説でも読んだ記憶はない。
この種のアイディアストーリーの非シリーズ作品集は一作一作の考案が大変で、だんだんアイディアが枯渇して面白くなくなることが多い。あるいは、読者が作風に慣れて新味を感じなくなる結果、面白くなくなるのかもしれないが、いずれにせよ高水準を保ったまま続けていくのは至難のわざだ。この本は1巻だから続巻もあるのだろうが、どこまで粘れるものか注視したい。
あと、もう一つ附記しておく。非シリーズの「奇妙な話」の作品集では、変化をつけるために後味の悪いもの、ダークな読み味のものを織り交ぜるのがふつうだが、この本は比較的からっとした明るいエピソードが多く、しかも一本調子ではないことが気に入った。厭な話も悪くはないが、新年早々読むにはこういう本のほうがいい。
今年は幸先のいい読書生活のスタートとなった。まずはめでたいことだ。

だんだん読めなくなる

新しい年の始めに今年の目標を立てようと思う。
その前に去年の目標がなんだったか振り返ってみよう。なにぶん1年前に立てた目標だから、当時の記録を読み返さないと覚えていないのだ。いやいや、それではいけないのだけれど……。
去年の目標は次のとおり。

  1. 小説を50冊程度読む。
  2. これまでに読んだことのない小説家の本を10冊以上読む。

このうち、2番目の目標は早くも3月には達成していたのだが、その後、急激に読書環境が悪化し、全然本が読めなくなった。たとえば、12月には小説2冊とマンガ1冊、合計3冊しか読んでいない。
そういった状況なので、さすがに小説50冊は無理だっただろうと思ったのだが、さっき集計してみると年間で小説を56冊読んでいることがわかった。対してマンガは26冊で、その他の本をあわせた合計は93冊。一昨年は126冊読んだので大幅減だが、それでも年始の目標は達成していることになる。
ちなみに四半期別にみると、39冊、18冊、26冊、10冊となっている。10月から12月にかけて10冊しか読んでいないのはいったい何があったのか? 昔のことはよく覚えていないのだが、確か9月のシルバーウィークのあたりに体調を崩して5日間寝て過ごしたのを皮切りに10月、11月も体調がすぐれず、本を読む気がわかなかったことは覚えている。毎年楽しみにしているハロウィンパーティーにも行けなかったしなぁ。いや、でも12月にはすっかり復調していたはず。なのに、なぜ本が読めなかったのだろう?
……と、ここまで考えて、11月中旬から12月上旬にかけて本が読めない事情があったことを思い出した。その頃に携わっていた仕事の関係で読書時間が極端に削られていたうえに、文章を目にするとゲシュタルト崩壊が生じるほどだったのだ。
そうこうするうちに年末を迎え、12月中旬以降は何もかもが忙しくなって、本が読めなくなっていた。毎月買っては積んでいた「小説推理」掲載の『分かれ道ノストラダムス』(深緑野分)をようやく連載第6回まで読み通したのは大晦日、すなわち昨日のことだ。なお、これはまだ完結していないし、1冊の本にまとまっていないので上記の冊数には含めていません。
閑話休題
今年の目標をどうするか?
あまり深く考えても仕方がない。こうしよう。

  1. 連城三紀彦の小説を5冊以上読む。
  2. 海外ミステリを20冊以上読む。
  3. 小説でもマンガでもない本を10冊以上読む。

この3つにしよう。互いに排他的な目標なので、最低35冊読む必要がある。
連城三紀彦は読んどかなきゃいけないよなぁ、と思って再刊・文庫化の折に買って積んである本が確か5冊くらいあったはずなので、目標を5冊にした。海外ミステリは昨年13冊読んでいるから再読も含めていいなら20冊という目標はさほど無理はないだろう。小説でもマンガでもない本というのは主に教養系新書になると思うが、こういった本も読んでおきたい。
というわけで、今年はこれらの目標に向かって邁進します。まず第1歩は昨年読めなかった『真実の10メートル手前』から! ……あ、目標と関係ないや。

まだ生きている

1年の終わりに何か総括めいたことを書こうと思ったのだが、いろいろ忙しくて考えがまとまらない。
この日記も放置状態が続いているので、見ている人も少ないとは思うが、もし「最近、更新が止まっているけど大丈夫かなぁ」と心配してくれる奇特な方がいるなら、Twitterを覗いていただきたい。だいたい毎日更新しています。アカウントはaNmiNreNtaNです、よろしく。
それでは皆さんご機嫌よう。よいお年を。

まだ死んでいる (Hayakawa pocket mystery books)

まだ死んでいる (Hayakawa pocket mystery books)

まだ死んでいる (光文社文庫)

まだ死んでいる (光文社文庫)

『戦場のコックたち』の感想

戦場のコックたち

戦場のコックたち

待ちに待った深緑野分の初長篇である。
発売日*1に仕事を早退して本を買ったくらい期待していた本だ。
でも、本を手に入れてしまうと、ふっと気が緩んでしまい、「これは一気読みしたほうがよさそうだから、余裕ができるまで寝かせておこう」などと思ってしまった。なにせ本文二段組で約350ページあり、登場人物一覧表に掲げられているだけで29人もいるのだから、心してかからなければならない。
だが、しばらく経って気がかわった。「余裕ができるまで……」と言っていては年末まで待たないといけないことになる。そうすると、台風の季節は終わってしまうだろう。二百十日までには読み終えられなくても、二百二十日をめどに読み進めることにしよう。そう思いなおしたのだ。
結果、二百二十日には読み終えることができなかったが、台風シーズンの間に読み切った。
作者名が深緑「野分」だというだけで、『戦場のコックたち』は台風を扱っているわけではない。そんなことは最初からわかっていた*2。だが、読み終えてみると、やはりこの小説は台風に似ている。すさまじいパワーと破壊力、そして通過したあとの安堵。
深緑野分は長篇第1作にして、作家としてのステージを2段も3段もとばして駆け上がった。そんな感じがする。
これは待たされた*3甲斐がありました。
さて、このあたりで『戦場のコックたち』の内容を紹介しておくべきだろう。でも、あらすじをまとめるのは大の苦手なので、著者本人のことばを聞くことにしよう。
D
んー、あまり内容に触れていない。では、担当編集者による紹介を。

1944年、8月。ノルマンディーへの降下が、僕らの初陣だった――17歳で志願し、19歳で初めて戦場に降り立ったティモシー・コール五等特技兵こと「キッド」。背は高くて体格もまあまあ、しかし穏やかな性格で運動神経もない彼は、同年代ながら冷静で頭脳明晰なエド・グリーンバーグに誘われ、軍隊では「罰ゲーム」と蔑まれるコック兵となる。もっとも、空挺緒部隊所属の特技兵であるコックの仕事は、戦闘にも参加しつつ、その合間を縫って調理をこなすというハードなものだった。

同じく後方支援を任務とする個性的な仲間たち――同じコック兵でプエルトリコ系の陽気なディエゴ、小柄で態度の大きいスパークと大柄で繊細なブライアンの衛生兵コンビ、調達の名人で容姿端麗な機関銃兵ライナス、おしゃべりな赤毛の補給兵オハラ、文学青年の通信兵ワインバーガーら――とともに、過酷な戦いの合間にみつけた「ささやかな謎」を解き明かそうと(気晴らしも兼ねて)知恵を出し合うが、謎を解くのは決まっていつもは物静かなエドだった。

ノルマンディー降下後に解放したフランスの小さな村では、軍に回収されるはずの未使用のパラシュートを個人的に集めて回る兵士の目的を推理し、後方基地でのつかの間の休暇中には、一晩で消え失せた六百箱の粉末卵(すごくまずい)の謎に挑む。そして激戦をきわめたオランダの「マーケット・ガーデン」作戦のさなかに起きた、おもちゃ職人夫婦の怪死事件の解決と、残された子どもたちの面倒見に奮闘する。その後彼らは「バルジの戦い」を経て、ついにドイツへと到達する――

おお、これは力作だ!
この紹介文は8月4日に公開されているので、もちろん先に読んであったのだが、いま改めて読み返してみると、驚くべきミスリードが施されていることに驚かされる。あ、「驚く」が重なった。
なかなかうまく説明できないのだが、たとえるなら「戦場まんがシリーズ」(松本零時)の作者が坂田靖子だと誤解させるような超絶テクニックだ。たとえが古くてすみません。
深緑野分の小説は、ミステリの「××トリック」というような仕掛けとは別レベルのたくらみが隠されていることが多く、概してあらすじ紹介が難しいのだが、『戦場のコックたち』は例外で、ストーリーをなぞるだけなら最後まで明かしてしまっても未読の人の興をそぐことはあまりないと思われる。しかし、作中の雰囲気とか、中盤以降に明らかになる「ああ、作者はこれが書きたかったのか!」というポイントとかを要約して示してしまうのは、やはり具合が悪いだろう。また、版元としては『オーブランの少女』の読者を着実に『戦場のコックたち』へと誘導していく必要もあるに違いない。そう考えるてみると上で引用した紹介文、そして「僕らの武器は銃とフライパン」というキャッチフレーズには、「なるほどこれしかない」と思わせる説得力がある。
他方で、骨太の戦争文学を愛する人々にはどうやって『戦場のコックたち』の魅力を伝えていけばいいのか、という難問もある。「名探偵」とか「日常の謎」というようなキーワードには全く興味も関心もない、ミステリに冷淡な人々の中にも、『戦場のコックたち』のよき読者となり得る人が多数いるはずなのだ。それは、この本を読んだ書評家諸氏の課題となるだろう。これからどのような書評が出てくるのか、楽しみだ。
「『戦場のコックたち』の感想」という見出しをつけておきながら、自分の感想をまだちゃんと述べていなかった。
この小説は主人公のティムの成長を描いたビルドゥングスロマンとして読めるし、実際、そういう読み方をした。各章で一つずつ提示される謎とその解決は、物語の骨格を支え、主人公の成長のトリガーとなる補助的な要素と捉え、あまり重視はしなかった。
書きようによっては、よりミステリ的効果を上げることができたのではないかとも思われるが、それでは物語の流れを阻害してしまうことになっただろう。正直にいえば、この控えめな書き方はミステリ愛好家としては「もったいない」と思わなくもないのだが*4、だからといって不満があるわけではない。
序盤のティムはあまり魅力のない平板な少年だが、数多くの惨禍を経て成長し、人格が歪み、やがて複雑な内面をもつ大人となる。このプロセスが非常に面白い。上で引用した担当編集者の紹介文の終わりのほうにはトマス・フラナガンの『アデスタを吹く冷たい風』を連想したことが書かれているが、トマス・フラナガンがほのめかすだけで書かなかったテナント少佐の過去の来歴をティムという別人に仮託して書いたのが『戦場のコックたち』だ、と言えるかもしれない。
まだ書き足りない気もするが、細かな感想はまた別の機会にこの本を読んだ人とじっくり語り合うこととして、今はこれだけにしておく。
願わくは『戦場のコックたち』がより多くの人に読まれんことを!

追記(2015/12/20)

『戦場のコックたち』は毎年恒例の年間ミステリランキングの類で高評価を得たようだ。

*第2位『このミステリーがすごい!2016年版』国内編ベスト10

*第2位「ミステリが読みたい!2016年版」国内篇

*第3位〈週刊文春〉2015年ミステリーベスト10/国内部門

今年のランキングは『王とサーカス』が制した感がある。米澤穂信の近年の円熟ぶり*5をみれば当然とも言えるが、私見では『王とサーカス』と『戦場のコックたち』はほぼ互角で優劣つけがたい*6。とはいえ、新人作家の初長篇がいまやベストセラー作家となった米澤穂信にここまで肉薄するとは正直思っていなかった。各種ランキングに参加した書評家その他のミステリ関係者の見識の高さに感心した次第。
このまま深緑野分が快進撃を続けて米澤穂信より先に直木賞を射止めて、ルサンチマンの鬼となった米澤穂信がさらなる新境地を目指して奮起する……というようなことがあるかもしれない。いや、別に米澤穂信のほうが先でも全く問題はないのだが、一読者としてはより面白い展開を期待したいわけです。
閑話休題
深緑野分は『戦場のコックたち』刊行とほぼ同時に「小説推理」誌で『分かれ道ノストラダムス』の連載を開始しており、順当にいけばこれが第2長篇となる見込みだ。
『戦場のコックたち』とは舞台も雰囲気も人物も趣向も全く異なる小説で、『戦場のコックたち』しか読んだことがない読者に作者名を伏せて読ませたなら、たぶん深緑野分の作だとわからないのではないかと思われる。もっとも、単行本未収録の短篇のいくつかとは少し似ているところもあるので異色作というほどでもないのだが、深緑野分の作家としての「引き出し」の多さを窺わせる作品だ。
『分かれ道ノストラダムス』の連載が始まってから「小説推理」は毎月買っているのだが、最近記憶力が衰えて一月あいだがあくとバックナンバーを読み返してからでないと続きが読めない状態のせいで、連載3回めまで読んで中断している。年末に続きを読んでおきたいのだが……。

*1:正式な発売日は8月29日だったそうだが、奥付には8月28日と書かれており、実際、その日には書店に配本されていた。

*2:ヨーロッパには台風はこないので。

*3:第二次世界大戦を舞台にした長篇を書いているという情報は、作者本人がかなり前にTwitterで呟いていたはず。デビュー作『オーブランの少女』が刊行された少し後のことだっただろうか。そうすると、約1年半待たされたことになる。

*4:特に第五章のネタは、これだけでトリッキーな長篇冒険小説が書けるのではないかと思った。

*5:昨年の『満願』も3冠だった。

*6:ちなみに、文春のベストテンで第2位となったのは『』だが、これは未読。

まだ死んではいない

久しぶりにこの日記にアクセスしたので、何か書いておこうと思ったのだが、すっかり日記の書き方を忘れてしまった。昔は毎日2時間も3時間もかけてひたすら日記を書いていたように思うが、としをとると時間も気力も体力も失われていくもので、これはもうどうしようもない。
とりあえず生存報告のみ。

「……に信頼」

国民の命、幸福、安寧を守っていくことが為政者の一番大きな責任だが、前文になんと書いてあるか。私たちの命を「国際社会に預けなさい」と書いてある。 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」。これも変な日本語ですね。「…われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書いてある。下手な日本語。文法も間違っている。

「諸君は、自分の想像力に信頼しないで、それぞれの人物を、モデルによつて研究してほしい」と。

近頃は翻譯書と云ふ翻譯書を予の家に持ち込んで、序文を書かせることが流行る。何の縁故もない人が皆持ち込んで來るのである。中には衆愚がお前の序文に信頼するから不本意ながら書かせるのだと明言する人もある。又文字や假名遣を一々世間並の誤字、假名遣に改めた上で載せる人もある。或は想ふに此種の序文注文人と彼誤譯指※(「てへん+二点しんにょうの適」、第4水準2-13-57)者とは同一人であることもありさうである。

彼れはまた思つた。大海の中心に漂ふ小舟を幾千萬哩の彼方にあるあの星々が導いて行くのだ。人の力がこの卑しい勞役を星に命じたのだ。船長は一箇の六分儀を以て星を使役する自信を持つてゐる。而して幾百の、少くとも幾十の生命に對する責任を輕々とその肩に乘せて居る。船客の凡ては、船長の頭に宿つた數千年の人智の蓄積に全く信頼して、些かの疑も抱かずにゐるのだ。人が己れの智識に信頼する、是れは人の誇りであらねばならぬ。夫れを躊躇する自分はおほそれた卑怯者と云ふべきである。

里村は気が気でなかった、波止場はすでに向うに見えている。彼はいても立ってもいられなかった。ことに、自分の体力に信頼しきって悠然とかまえている田中のそばにいるのがもう辛棒できなかった。彼はふらふらとデッキのベンチをたち上って船室へ降りていった。