発語訓練

まえおき

創作への憧れ。それは、誰にでもあるといえば言い過ぎだけれど、かなり多くの人が共有しているものではないかと思う。もちろん、人によって憧れる創作物の形態は異なる。ある人は絵を描きたいと思い、ある人は音楽を奏でたいと思う。だが、ここではぐっと絞って物語の創作に、さらにぎゅっと絞って文芸作品に限定しよう。その典型は小説だ。
さて、小説を書きたいと思っても、なかなか書けるものではない。書けない理由はいくつかあるが、時間がないとか文章を記述する媒体がないとかの物理的制約を除けば、主な問題点は次の2つだろう。

  1. アイディアやプロット、ストーリーが思いつかない。
  2. 小説の文章として練り上げることができない。

後者の問題に対応するには、地道な文章修行が必要だ。どうやって修行すれば効果的で、読む人に感銘を与える文体が確立できるのかはわからないけれど。
わからないものにこだわっても先に進まないので、前者について考えてみよう。アイディア発想法や、プロットの組み方などについて解説した本はいくつもあって、そのうちのいくつかは読んでみたことがある。ただ、当たり前のことだが、その種の本は実際に創作活動を行ってある程度の成功を収めた人が書いたもので、正直にいえば「そんなにうまく物語が出てくるものかね〜」と思わないでもない。
とはいえ、学ぶべき点がないでもない。たとえば、創作は模倣から始まるというようなことは、その種の本のどれを見ても書いてある。模倣といっても、最初から最後まで筋をなぞってしまうとただのパクリだから、どこかで変化をつけないといけないのだが、それでも全く何もないところから事を始めるよりはずっと簡単だ。
と、ここまでが前置き。

止まっていた時間

2ちゃんねる観測衛星:止まっていた時間を読んで感心した。後の都合もあるので、当該記事を全文引用しておくことにしよう。


236 名前:名無しさん@そうだドライブへ行こう[sage] 投稿日:2006/01/23(月) 23:06:20 ID:+/6iwpFz0
>>235
ホント悲しいよな、時間の流れって。
中学時代片思いしてた同級生の女の子。その頃の俺は何もできず、何をすればいいのか、それすら分からなかった。

今年の正月明けに実家の近所のスーパーで再会しました。
彼女は俺と同い年になってました。

どう感心したのかを詳細に述べたり、批評したりするのがこの文章の目的ではないから簡単に書くが、最後の一文が面白い。当たり前のことを当たり前に書いていながら、前段、特に最初の一文と呼応して、実に深い内容を示唆している。でも、振り返ってみると、やっぱり当たり前のことしか書いていないわけで、読む側の心理は振り子のように揺れる。それは、この記事につけられたコメントを見ても明らかだ。
この記事そのものはたぶん実話だと思うが、最後の一文を別のものに差し替えればどうなるだろうか? そこに新しい物語が生まれるのではないだろうか?
もちろん、それだけでは「小説」の名には値しないだろう。上で述べた第2の問題点が解消されない限り、小説の体裁を整えることはできない。
でも、まあ、とりあえず始めてみようじゃないか。

なかおき

以下の作例では、全文を書くと長くなるので、最後の一文のみ引用タグで囲って提示する。
引用ではなく例文の提示なのだから引用タグを用いるのはおかしいとの意見もあるだろうが、別にレイアウト上の都合でそうするわけではない。引用も例文の提示も論理的な「言語の使用/言及」の区別に基づけば、言及の側に属する事柄だから、特に例文用のタグが用意されていないHTMLでそれを表現するには引用タグを用いるのが最も適当だと判断したためだ。
それに納得できない人は、以下の例文はそれぞれ架空の文章からの引用だと解釈してほしい。

伸縮する時間・止まった時間


彼女は俺の2倍の年になってました。
まずは、誰でも思いつきそうなところから。
2倍の年というのは実年齢のことなのか、それとも見かけのことなのか?
見かけのことだとすれば、果たして「彼女」の身にどんなことが起こったのか? 生活苦で若さを失ってしまったのか、それとも恐怖体験で一気に年老いてしまったのか?
実年齢のことだとすれば、ウラシマ効果でも持ち出さない限り説明がつかない。「俺」は中学校卒業後宇宙飛行士になり、数年ぶりに帰省(帰星?)して幼なじみに出会ったというわけですね。

彼女は最後に会ったときと同じ年でした。
これも2通りの物語を内包している。止まってしまったのは「彼女」の時間だけなのか、それとも「俺」の実家がある街全体なのか。いずれにせよ、SF的にも怪奇小説的にも展開できそうだ。

変化する属性


彼女は赤ん坊をカートに乗せていました。
これはありがち。上述の振り子効果もないし、別の妙味が加わっているわけでもないのでつまらない。もちろん、文章の力で読ませる小説に仕上げることは不可能ではないだろうが。

彼女は立派な髭を蓄えた紳士になっていました。
上のに比べるとちょっと捻っているけれど、予想の範囲内。いや、「俺」の立場だとびっくり仰天するだろうとは思うが、小説を読み慣れた読者の耐性を突破するほどではない。

彼女は物言わぬ遺影となっていました。
これはどうでしょう? スーパーに遺影を飾ることなんてあるのかなぁ。
同路線なら

彼女の生首はまるで俺を睨み付けているようでした。
とか。
スーパーで発生した猟奇バラバラ殺人というわけで。犯人は……「俺」自身だったというのが妥当なところか。
もう一つ全然別の路線では、こんなのは如何か。

彼女はそのスーパーの店長でした。

奇を衒ってみよう


彼女は俺と同一人物になっていました。
なんだこりゃ?

たとえていうなら、彼女は郵便ポストの赤であり、俺はいわば交通信号の赤であり、二人とも同じ「赤の時代」を生きつつありながら、それにもかかわらず、いやまさにそれゆえに二人の距離は銀河系とアンドロメダ星雲ほども離れていたのです。

俺は衝動的に彼女に襲いかかり、彼女は必死で抵抗し、その結果、俺の国と彼女の国は事実上の戦闘状態に入りました。
ナンセンスの問題は、いくつも続けると慣れてしまって陳腐化が激しくなるところにある。

最後の一撃


彼女は俺の義母になっていました。

あとおき

ここまで書いてみて気づいたこと。それは、小説を書きたいと思っても書けない最大の理由――すぐに飽きる――だ。この問題を克服しない限り、一定の長さ以上の小説は書けない。でも、飽きっぽさ、根気のなさという性格の改善は、技能の習得以上に困難だ。
以上で発語訓練を終える。

追記(余談)

今回の見出しは『発語訓練』から。ちなみにこの本は文庫版では『素晴らしい日本野球 (新潮文庫)』と改題されています。