ネコ耳ってどんなこと?―とっても萌えたいケモノ耳入門

巻頭言−あるネコ耳スキーの魂の叫びより−


世にある獣耳系の小説は、その魅力をきちんと書き表していないと思うのです。耳・尻尾がついてるついていないが、イラストでしかわからないような作品ばかり! 尻尾はふさふさしてなんぼだと思うのですよ。

はじめに

この文章は、ネコ耳、または一般にケモノ耳と総称される萌え要素についての一人のネコ耳スキーへの質疑応答集である。見出しがちょっとアレだが、この事情については後述する。
質疑は次の2つの記事を前提として行ったので、読者は事前に予習をしておくことが望ましい。前者については、コメント欄も参照のこと。

件のケモノ耳スキー氏の実名は本人のプライバシー保護のため*1伏せることとし、ここでは本人の希望により「鶴屋」と呼ぶことにする。「鶴屋」という屋号の和菓子屋は京都を中心に全国に多数存在するが、たぶん鶴屋氏とは無関係のはずだ。
なお、回答文については、ところどころ日本語として意味がつかみ取りにくい箇所や議論に飛躍が見られる箇所もあるが、文言の不統一も含めて一切手を加えていない。ただし、註釈は安眠練炭*2によるものであり、鶴屋氏の関知するところではない。

質問1:ネコ耳(ケモノ耳)を文章で表現する意味

たとえば「メイド」なら主従関係、「妹」なら血縁関係というふうに目には見えない(つまり視覚で知覚できない)関係性を内包しているため、単にイラストで表示するだけでなく、文章で描写を行う積極的な意義が認められます。また、本来は視覚的なものである眼鏡も、そこにさまざまな性格が付与されることで、イラストでは表現不可能な深みを持ち得たと考えられます。
では、ネコ耳(ケモノ耳)の場合はどうでしょう? 視覚的な表現をイラストに任せるのではなく、文章による描写を積み重ねることで、どのような効果が得られるものでしょうか?



視覚情報で満足してしまう人が多い中、というか、そもそも視覚情報でしか関係を持てないはずのネコミミについてのふさふささを、あえて文章化することで得られる満足感とは。
この疑問は、「映画→漫画」「漫画→小説」についても色々なことをネタにして使えますよね。*3
例えばエロ小説なんかが極端な例だと思います。
すなわち、「現実での肌の重ねあわせで満足してしまう人が多い中、というか、そもそも現実での肌の重ねあわせでしか持てないはずの性行為についてのエロさを、あえて文章化することで得られる満足感とは」、と。
上記の例については多分色々と文章化することの意義みたいなものをつらつらと並べることができると思いますが、ネコミミについてもまったく同様の考えができると思います。
それこそ、現実的な制約から文章に逃げる、ということから、文章のほうがより妄想を書きたてられてエロイ、とう趣味の人の意見まで。
それと、私が「イラストでしか耳がついているついていないがわからないのは」と言った*4のは、補足するならば、「漫画では獣耳と尻尾が付いていれば、コマ割の特殊な制約にでもかからない限り、ほぼそのキャラが描かれる時は耳、ないし尻尾が描かれ、耳・尻尾スキーは程度の差はあってもそれなりに満足することができる。しかし、小説においては書かれていないことはないのと同じ」となります。これに反する例は当然ありますが(例えば論理的に導出される「そういうことがあったにちがいない」ということなど)*5、基本的にはあるキャラが動いていても、積極的に描写されない限り耳とか尻尾のよさを味わうことができません。それと、論理的に耳と尻尾の存在を導出されても全然萌えません。*6
よって、「あえて文章化することで得られる満足感」というのは違うと思います。つまり、「あえて文章化しないと満足感が得られない」がより正しいでしょう。*7
ただ、文章であれば漫画よりもさりげなく、かつ効果的に耳と尻尾という小物を活用できると思うことはあります。
例えば、煙草のようにちょっとした間を設けるために尻尾の描写をしたり、と。
もっとも、漫画だって耳と尻尾をおざなりに描いているせいで満足できないものも多々有ります。例えば、間を保つための煙草のような役割を与えられることはほとんどありません。*8
よって、「せっかくあるのだからもっとクローズアップしろ!」ということです。文章ではより積極的に(具体的に言えば文章化)しないとそれが不可能だという意味での「イラストでしか耳と尻尾が〜・・・」という意見です。
ただ、文章であえてクローズアップすると必然的に漫画でよりも際立つので、そういう意味ではあえて文章化することで得られる満足感というのはそれが当たるのかなあ、とか思いますが、絵で耳と尻尾をこれでもかと取り上げてくれるのならそれに越したことはないと思います。*9

質問2:ネコ耳(ケモノ耳)の含意

質問1と関係することですが、仮にネコ耳(ケモノ耳)が視覚的な形状以上のものであるとすればそれは一体何でしょう?
メイド服が主人への忠誠心を示し、「お兄ちゃん」という舌っ足らずな呼びかけが、兄への親愛の情を表すように、ネコ耳(ケモノ耳)であるということが暗に含んでいるものが何かあるのでしょうか?


耳と尻尾が付くことにより、そのキャラは完全な人間ではない、という認識が生まれます。
ケモノ耳や尻尾スキーが着脱可能なアクセサリーとしてのそれらをつけている人間にまったく萌えないのは、ここが大きなポイントだと思います。*10
例えば、耳と尻尾のアクセサリーをつけた美少女キャラが猫のような所作(足で首を掻いたり、猫じゃらしに過敏に反応したり)をすれば、ちょっとかわいさを通り越してうざいかきもいかかわいそうとなります。*11
しかし、同じことを本物の耳と尻尾を有するキャラがやれば、「ああやっぱり動物だから」ということで、猫なり犬なりの動物的行動を見てほのぼのするのと同じレベルでその行動を見守れます。
もっとも顕著な例だと、(ある季節になると突然起こったりする動物的な)発情とかがあげられると思います。
清楚で可憐な振る舞いが売りで、エロパロですら許さん!というような雰囲気があるキャラクターがいるとしたとき、そのキャラが完全な人間であり、アクセサリーとしての耳と尻尾をつけることで発情すれば、ファンタジー要素やギャグ要素のある作品でない限り、そのキャラのファンは幻滅してしまうことでしょうし、清楚だったりしなくても「ちょっとそれはどうなの・・・」となるでしょう。
しかし、これが本物の耳と尻尾を持っているキャラであれば、例え聖女の鑑のようなキャラ造形であったとしても、発情したところでその扱い方を間違えなければファンは幻滅どころかファンのほうも発情してしまう*12でしょう。本物の耳と尻尾を有している時点でそのキャラは完全な人間ではなく、どのような動物的な行為であっても必然性を伴っているといえるからです。
もちろん、これほど極端な例でなくても、耳あり・耳なしキャラが同じ行動を取ったとしたときの受け手の印象の違いは明確に取り上げることができるでしょう。
真面目一徹でツンと澄ましたキャラ(こういうキャラのほうがギャップが出るので多用してしまいますが)*13が、ぴょんとだされた猫じゃらしについ反応してしまうとか、本物の耳有りキャラでなければ楽しめません。
よって、やはり結論としては「キャラのとる動物的な行為を動物と同じように違和感なく扱える」、すなわち「必然的な動物的属性」をキャラに付与するのが耳と尻尾といえると思います。
理性ではどうしようもない動物的な本能(というには大袈裟かもしれませんが)を所有するということを、耳と尻尾は示すのだと思います。
(追記;トーテムに動物を持つ部族の人間キャラが動物的振る舞いをしても耳と尻尾を有するキャラと同じ扱いができそうです)*14

質問3:ネコ耳(ケモノ耳)の固有性

上の2番目のリンク先では、完全なヒトと完全なケモノの中間にネコ耳が位置づけられています。
これはこれで統一理論として評価できますが、ほかに考え方はないものでしょうか?
すなわち、ネコ耳(ケモノ耳)に、何か固有の意味がないものか、ということです。


私はケモノ耳をある種のスイッチと考えています。
質問二の私の回答と矛盾するような感じもします*15が、例えば漫画のギャグっぽい場面で、突然人間キャラが猫目になって耳と尻尾を有し、猫が獲物を狙うような所作をしても、読んでいる側としては特に違和感もなくくすりとしてしまったり、または猫いがいにはない猫らしさをアピールされても戸惑いません。もっとも、この場合は突然キャラがデフォルメになることそのものが「なんでもあり」のスイッチなのかもしれませんが。
それに、私がケモノ耳(ただし単純なアクセサリーではない)をスイッチであると考えるのは、例えば魔法や薬などで人間キャラに耳と尻尾が生えてしまえば、人と獣の合いの子、または獣が一時的に人の形を取っているなどの設定でなくとも一気に必然的な動物的属性を所有できると思うからです。*16
そして、重要なのはスイッチを所有していてもそれがオンにならなければ人のままであってもかまわないことです。仮にケモノ耳を、完全な人とケモノの中間として、すなわち「常に両者の性質をあわせ持つ」ものとするならば、このような状態は許されないでしょう。
また、元々耳と尻尾を有するキャラは、言い換えればスイッチが入りっぱなしという設定のキャラともいえます。
つまり、元々耳と尻尾を有するキャラが魔法や薬や事故で耳と尻尾を失っても、直ちにそのキャラから必然的な動物的属性がなくなるわけではありません。引き続きそのキャラが動物的な所作を行っても、我々(ケモノ耳スキー)は魅力の減少を感じつつも、おそらく大部分がそのキャラに萌えるでしょう。*17
そして、キャラクター自身からなんらかの動物的属性が剥げ落ちてもそれはそれでありでしょうが、いつでも復帰可能と考えて良いかと思われます。

質問4:各ケモノ耳の個性

ケモノ耳にもいろいろありますが、それぞれの耳の個性についてお考えがあればお書き下さい。


ネコミミ少女が実は犬より犬らしい性格だ、なんてのは良くあることで、キャラクターの性格付けとしての個性はないと思いますが、質問二からある程度導かれることとしての個性はあると思います。
例えば、ネコミミ少女が骨に反応するのはおかしいけど、犬耳少女ならわかるとか。
キャラが所有する耳や尻尾の種類によって、我々が持っているある動物固有の習性に対する認識(偏見や固定観念と言ったほうが正しい場合が圧倒的だと思いますが)をそのキャラに持つという意味では、耳それぞれに個性があると思います。

質問5:着脱可能なネコ耳(ケモノ耳)

着脱可能なネコ耳(ケモノ耳)についてのお考えもお聞かせ下さい。


着脱可能なケモノ耳については、視覚的な装飾という意味以外に議論するならば、これまでの議論にすでに結論は出ています。
即ち、アクセサリーという偽物であれば、それは耳・尻尾スキーの真の守備範囲から逸れます。また、そのキャラが動物的属性を必然的に発揮するための言い訳にはなりません(これに催眠などが加わっても、やはり人間は人間、と言う評価が耳・ケモノスキーからは下されることでしょう)。もちろんアクセサリーだろうがなんだろうが付いていれば格好としては耳と尻尾を有するのですから萌えないことはないですが、やはり物足りないとか、耳尻尾原理主義者からは偽物・異端者として糾弾されるでしょう。
また、耳と尻尾が突然なくなったから(着脱可能であるから)といって、そのキャラから必然的な動物的属性がなくなるというわけではあリません。*18
一例を挙げると、『パンパレード』(新条るるコアマガジン*19においては「人間に変身可能な獣」というキャラとして獣耳と尻尾を有する女の子が出てきます。そして、彼女らの耳と尻尾は取り外し可能ですが、だからと言って人の姿の時にとる動物的振る舞いに違和感を持つことはありません。
しかし、やっぱり耳と尻尾が付いていて、さらに動物的振る舞いを時折見せてくれるのが最良なことに違いはありませんが。

長い蛇足

以上をもって、鶴屋氏との質疑応答はおしまい。氏のネコ耳・ケモノ耳にかける熱く真摯な思いがひしひしと伝わってくる問答だったのではないだろうか? また、鶴屋氏の将来に一抹の不安をおぼえた人もいることだろう。
以下は蛇足になるが、今回の記事を書くに至った経緯について長々と述べておくことにしよう。
もともと、ネコ耳にもケモノ耳にもほとんど関心がなく、萌えを感じたことも全然ないのだが、あるきっかけからこの萌え要素に興味を抱くことになった。そのきっかけというのは、『狼と香辛料 (電撃文庫)』の刊行だ。電撃大賞受賞作のうち4作が同時発売された中で、『狼と香辛料』がネット上でいちばん人気だった*20こと、しかも、発売直後から極楽トンボ氏や平和氏が強くプッシュしていたことが少しショックで、「このままではいけない。ケモノ耳萌えを理解できるようにならなければ」*21と思うようになった。「ヨソはヨソ、ウチはウチ」という境地にはなかなか達することができないものだ。
そんなさなかに、ふと「ネコ耳であるのはどのようなことか」というフレーズがふと思い浮かんだ。元ネタはこれ。

コウモリであるとはどのようなことか

コウモリであるとはどのようなことか

これを手がかりにしてネコ耳(ケモノ耳)について論じられないものか、と漠然と考えてうかうかしているうちに、先を越されて大いに焦った。いや、まだ大丈夫、あっちはタイトルだけだ、中身もある文章をかけばいいんだ、と心を落ち着かせたものの、その肝腎の中身が全然まとまらなくて困った。
まずは「コウモリ」論文を読み返すべきだ。『コウモリであるとはどのようなことか』は手許にないけれど、同じ論文には別の訳があって、そっちは持っている。
マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈下〉

マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈下〉

*22
この第24章に「コウモリであるとはいかなることか?」というタイトルで同じ論文が収録されている*23。早速、ミカン箱から発掘して読んでみたのだが……素人には歯が立たない。決して難しい文章ではないのだが、内容が高度過ぎて議論の筋を追いかけるのがやっとのこと、咀嚼してパロディを書くのはとても無理だった。
マインズ・アイ』は、各章の本文のあとに編者のデネットとホフスタッターが「編者短評」と題するコメントを添えるというスタイルになっていて、「コウモリ」論文にはホフスタッターが非常に長い短評を書いており、その中で次のように述べられている。

重ね合わせ、投影、同一化、感情移入――何と呼んでもよいが――等の概念に関しては、非常に魅力的な何かが存在する。【略】こうした重ね合わせをあまり真剣に受け取りすぎるのもばかばかしいことである。しかし、われわれは自分の心を止めることはできない。どうせできないのなら、極端に走ってみようではないか。そして表題のナーゲル*24論文のテーマについて、途方もない変奏曲を楽しんでみよう。

  • マクドナルドの店で働くということはいかなることであろうか? 三十八歳であるということは? 今日ロンドンにいるということは?
  • エベレストに登るということはいかなることであろうか? 体操のオリンピック金メダリストであるということは?
  • 良き音楽家であったなら、それはいかなることであろうか? キーボード*25で即興フーガがつくれるということは? J・S・バッハであるということは? イタリア協奏曲の最終楽章を書いているバッハであるということは?
  • 地球が平らであると信じるということはいかなることであろうか?
  • あなた自身よりも信じられないくらいはるかに知性的な人物であるということはどんなことであろうか? 信じられないくらい知性が劣っているということは?
  • チョコレート(あるいはあなたの個人的な好みの味)をもらうということ*26はいかなることであろうか?

まだまだ続くのだが、引用はくれくらいにしておく。さすがのホフスタッター先生もネコ耳やケモノ耳には言及していないが、このリストの末尾に「ネコ耳が頭についているということはいかなることか? また、ふさふさとした尻尾に萌えるということは?」という一項目を付け加えても全く違和感はないはずだ。よって、「コウモリ」論文を踏まえてネコ耳またはケモノ耳について語るというのは、かなり有望なアプローチだと思うのだが……まあ、その力量がないのだから仕方がない。
なお、「コウモリ」論文について興味のある人は下記リンク先を参照されたい。

さて、「コウモリ」論文のパロディでネコ耳について論じるというアイディアが頓挫して、これから先どうやって生きていこうかと思案しているとき、これを読み、さらに頭を抱えることになった。やはり素人が気軽に取り組めるような問題ではなかったのだ。だが、せっかくだから、何かネコ耳について書いておきたい。
ネコ耳のことはネコ耳スキーに。素人に太刀打ちできないのなら、専門家(?)に訊けばいい!
そういうわけで、急遽質問をでっち上げて鶴屋氏にメールを送ったわけである。留年(放校?)の危機に瀕して多忙な中、快くご回答いただいた鶴屋氏に厚く御礼申し上げます。
最後に見出しについて触れておく。上述のとおり、「コウモリ」論文をもとにしてネコ耳について語ることを断念したものの、そのまま引き下がるのも悔しいので、せめて見出しだけでも何かそれらしい匂いをつけておきたいと思い、いろいろ考えているうちにネーゲルのもう1冊の邦訳書に思い至った。こちらも数年前にざっと一読しただけなので、内容的には全然関係はないのだが、そこはそれ。

哲学ってどんなこと?―とっても短い哲学入門

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*1:というか、そもそも本名自体を知らない。以前は別名義で活動していたが、その名前は捨てたようなので、たぶん黒歴史扱いなのだろう。ここで紹介する鶴屋氏のコメントもまた黒歴史っぽいが。

*2:知らない人もいるだろうが、この日記の筆者の名前は「安眠練炭」だ。別にはてなID記法で書いてもかまわないけれど、できればハンドルのほうも覚えておいてもらえると有難い。なお、ハンドルは気分次第で変えることがあるので、いつまでも「安眠練炭」のままとは限らない。

*3:少し意味が掴みにくい文だが、下の例示とあわせて考えるとたぶんこういうことなのだろう。――いまネコ耳について問われている疑問は、この話題に固有のものではなくて、他の視覚情報についても同じ疑問を提示することができる。さらに、この問いは映画をマンガ化したり、マンガを小説化したりすることの意義への問いとも共通するところがある――。だが、物語を異なる媒体に移植することの意義についての問いは、視覚情報の文章表現に関する問いとは少し意味合いが違うのではないだろうか?

*4:巻頭言を参照。

*5:鶴屋氏が念頭に置いていたかどうかはともかく、このコメントはミステリの機構を暗示しているように思われる。厳格なパズルストーリーは、問題篇に書かれた事柄から、解決篇で示されるべき真相が論理的に導出可能であるという理念によっている。ただし、純粋に論理的手続きのみによって解決が導出されるミステリはたぶん実在しない。

*6:そりゃそうだ。

*7:同じことではないだろうか?

*8:このあたり、何を言っているのかよくわからない。「ただ……」と「例えば……」の段落は本論から少し外れる挿入箇所で、「もっとも……」の段落はそれ以前の議論の続きだと考えればいちおう流れは掴めるのだが、そうすると「煙草のような扱い」という同じ例が出てくるのが解せない。

*9:結局、絵でも文章でもどっちでもいいようだ。魂の叫びはどうなった?

*10:ここには、現象としてのネコ耳から人間存在にとってのネコ耳というテーマへの人間学的転回が見られる。なお「人間論的転回」という言葉は何となく偉そうだから使ってみただけで、内容なんてないよぅ。

*11:最後のフレーズは「うざいorきもいorかわいそう」という意味。平仮名が連続すると語の切れ目がわかりにくくなるという好例だ。それにしても身も蓋もないこと言ってるなぁ。

*12:この感覚がまさにネコ耳スキー。ここ、テストに出るのでノートにとっておくように。

*13:どういう用途に「多用」するのだろうか? あえて問い詰めないほうが本人にとっても現代社会に生きる我々にとっても幸せかもしれない。

*14:この発想はなかなか面白いと思う。オタク的文脈で語られる物語の中ではこれまで実例はないように思うのだが、どうだろう?

*15:質問2は着脱可能なネコ耳についてのもので、ここで述べられているのは出たり引っ込んだりするネコ耳、すなわち身体の一部としてのネコ耳のヴァリエーションなので、別に矛盾はないと思う。

*16:これは人間が動物的属性をもつ物語的必然性をネコ耳が与えるということであって、「スイッチ」とは別の話だと思う。ただし、この論点はそれ自体として興味深いので、今後より検討する必要がある。

*17:このあたりの議論を「心の眼鏡」理論と対比してみると面白い。「耳や尻尾がなくなったんじゃない。見えないのは信心が足りないからなんだ!」

*18:ここからは、単なるアクセサリーではない本物で、かつ着脱可能なケモノ耳の話。着脱可能なケモノ耳にも本物と偽物があるという発想は面白い。意外な盲点だった。

*19:ISBN:4877343091

*20:ちなみに、この4作について自分が書いた感想文を読み返すと、どうやら『お留守バンシー』をもっとも評価していたようだ。へぇ。まるで他人ごとのようだが、何を書いたかすっかり忘れてしまっていたのだから、しょうがない。

*21:こんなふうに書くと、『狼と香辛料』がケモノ耳萌えだけの小説のようだが、決してそうではない。たとえば後天性無気力症候群 - 二人の目的が一致しない物語〜「狼と香辛料」では、そのような観点を抜きにして論じている。もっとも、東大助教授が本名を晒して狼しっぽ萌えを表明しているくらいなので、やはり萌えの占めるウェイトのほうが大きいのではないだろうか?

*22:これは新版。手許にあるのは旧版で、奥付によれば1984年1月5日初版発行。

*23:訳者は植村恒一郎氏。

*24:Nagelの仮名表記としては「ネーゲル」「ナーゲル」の2通りがあり、『マインズ・アイ』では「ネーゲル」を採用しているが、なぜかここだけ「ナーゲル」になっている。

*25:もちろん、パソコンやワープロの入力装置のことではなく、鍵盤楽器のこと。ホフスタッターがここで念頭に置いているのは、たぶんバッハが生まれて初めてピアノに触れたときに作曲した「三声のリチェルカーレ」だろう。

*26:文脈から考えると、これもまた反実仮想のはずなのだが……。アメリカにも特定菓子贈与禁止法の適用対象になる悪習があるのだろうか?