「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対して「人を殺してよい社会は滅ぶからだ」という回答が与えられたとき、さらに「なぜ社会は維持されなければならないのか?」という問いを立てるのは適切ではない。
むろん「なぜ社会は維持されなければならないのか?」という問いを立てることは可能だし、それはもしかしたら意味のある問いかもしれない。けれども、当初の問題の系列からは外れたものになるだろう。なぜなら、社会は維持されなければならないという規範が根拠のあるものであろうとなかろうと、社会が滅んでしまえば、人を殺してはいけないという規範も消滅し、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問い自体も成立しなくなるだろうから。
「人を殺してよい社会は滅ぶからだ」という回答が、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対する十分な回答であるかどうかはわからない。少なくとも、人を殺してはいけないという規範がない社会はかなりの蓋然性をもって滅ぶだろう、という見込みの妥当性については検討する余地があるだろう。ただし、この回答の妥当性は、社会は維持されなければならないという規範に依存しているわけではない。
これは、ちょうど「なぜキリンの首は長いのか?」という問いに対する「キリンの首は高い木の葉を食べるために伸びた」という回答の妥当性*1が、「なぜキリンの首は伸びなければならないのか?」ということに依存しているわけではない、ということに対応している。キリンの首が伸びる必要があろうがなかろうがそんなことは問題ではない。もしキリンの首が伸びていなかったならば「なぜキリンの首は長いのか?」という問い自体が成立しなかっただろう。
REV氏はしばしばこのような喩えを用いることがある。この論法は常に成功するわけではないが、キリンの喩えは成功しているように思われる。アナロジーの眼目は目的論を持ち出すことにあるのではなく、ある問いに対する回答を吟味する際に不適切な再問があることを示すことにある*2のだから。