論理と時間

ある命題が真であれば、その命題の対偶も必ず真となる。だが、ある命題が真だからといって、その命題の逆や裏も真となるとは限らない。しかし、人はしばしば対偶命題と逆命題または裏命題を混同し、論理的に誤った推論を行う。これはなぜなのか……という問題提起をしていると思ったので期待して読み進めたのだが、最後まで読んでも十分な答えが与えられているとはいえない。ちょっと残念だった。
もう一つ残念だったのは、次の箇所だ。


「雪がとければ水になる」と「雪がとければ春になる」の違いは何でしょうか? 前者の対偶をとると、「水になっていなければ雪はとけていない」ですから、これはいつでもどこでも正しい命題でしょう。一方、後者の対偶は「春にならなければ雪はとけない」ですが、よく考えてみると、この命題が意味をもつのは、冬、雪にかこまれて春をまつ季節の中で、だけなのです。
二つの命題のうち前者については正誤のレベルで評価し、後者については意味の有無*1のレベルで評価している。これは評価基準の違いであって、命題の違いをうまく特徴づけているとはいえない*2
二つの命題の違いは、対偶をとるまでもなく、省略された文言を補えば一目瞭然だ。前者は「雪がとければ、それは水になる」ということだし、後者は「雪がとければ、その時に春になる」ということだ。二つの命題はどちらも前件と後件が意味上の共通要素があるのたが、日常の言葉づかいではそのような要素を明示的に述べるとくどくなるので省略される。それで見かけ上同じ構造をもった二つの命題が生じてしまったというわけだ。
ところで、「ヘンペルのカラス」について次のような思考実験をしてみよう。ある動物園に*3巨大な鳥かごが据えられていて、その中にはさまざまな種類の鳥があわせて1000羽入っている。その中では鴉がもっとも多く700羽いる。また、鳥かごの中には鳥以外の事物は何もない*4この鳥かごについて「すべてのカラスは黒い」という命題の正しさを確認するには、次の2つの方法がある。

  1. 鳥かごの中の鴉を片っ端から調べて、その色が黒であることを確かめる。
  2. 鳥かごの中の黒くないものを片っ端から調べて、それが鴉ではないことを確かめる。

どちらでも最終的には同じ結果が得られるが、1の方法だと作業を終了するまでに700回確認しなければならないのに対して、2の方法だと最高で300回の確認作業で済む*5。もし、鴉以外の鳥にも黒い鳥が多く含まれていれば、ずっと確認作業が楽になる。
だが、残念ながら現実は今例に出した架空の鳥かごとは異なり、鴉の数に比べて黒くないものの数が桁違いに多い。だから、「すべてのカラスは黒い」を確認するかわりに「黒くないものはカラスではない」を確認するというのは無茶なことだ。特に意識はしなくても、これら二つの命題の真偽を確認する手続きの困難さの違いは誰でも知っている。真偽を確認する手続きと、その手続きによって確認される真偽とをはっきりと区別していない人なら、これら二つの命題そのものが全く別物だと思うことだろう。これが、「ヘンペルのカラス」において、もとの命題とその対偶とが論理的に等しいということに疑問を抱く主な理由だと思われる。
我々がいるこの世界は時間と空間から成り立っている。また、命題の真偽を確認するのにも時間を要する。その意味では「ヘンペルのカラス」においても時間という要素は無関係ではない。だが、「彼は、叱られないと勉強しない」の例とは異なり、「ならば」によって繋がれた前件と後件の間に時間的前後関係があるわけではない。「時間を超えた論理/時間の中で意味をもつ論理」という対比では、それぞれの例で時間が論理に関わる仕方の違いがうまく反映できていないのではないだろうか?

*1:もちろん、ここでいう「意味」とは言語的意味のことではなくて、命題を用いる意味ということだ。

*2:前者がいつでもどこでも正しい命題だとしても、後者と同じ基準で評価するなら、雪が降ったり積もったりしていないような状況では意味をもたないということになるだろう。また、後者は冬以外には意味をもたない命題かもしれないが、夏に用いれば誤った命題になるということではない。

*3:別に動物園である必要はないが。

*4:もちろん真空ではないが、個数を数えたり、色を確かめたりすることができるようなものは鳥以外にはないということだ。

*5:どちらも重複カウントがないものとして。同じ鴉や、同じ黒くないものを2回以上調べることになれば、最高回数はもっと多くなる。