「すべてのカラスは黒い」の対偶は「黒くないものはカラスではない」ではない

まずはウィキペディアから

論理と時間の続きというわけではないが、まあ関係なくもない話。


命題 p ⇒ q に対して、¬q ⇒ ¬p を、元の命題の対偶(たいぐう)と言う。ただし、¬p は命題 p の否定である。
元の命題が正しくとも逆や裏は必ずしも正しいとは限らない(逆必ずしも真ならず)。しかし、ある命題とその対偶の真偽は必ず一致する。
なお、逆と裏も対偶の関係にあり、ある命題の逆と裏の真偽も必ず一致する。
数学では、元の命題を証明することが難しくてもその対偶を証明することは比較的易しい場合がある。このようなときには対偶との真偽が一致することを利用して証明する。

ある仮説命題が真ならば、その対偶命題も真であり、両者は同値である。ここで、同値ならば、ある仮説命題をその対偶命題で書き換え、元の命題を対偶で確証するという手段が有効なように思われる。「ヘンペルのカラス」はこの思い込みの間違いを指摘した。
「全てのカラスは黒い」という仮説命題に対して、その対偶命題は「全ての黒くないものはカラスではない」である。ここで、「全てのカラスは黒い」を直接に正当化せず、対偶命題でこれを正当化することを試みてみよう。
前者では ¬ は説明されているのに ⇒ の説明がないので少し補足しておく*1。 p ⇒ q は、命題 p と命題 q をあるルールにより結合して作られたもので、これ自体が一つの命題である。そのルールを文章で説明すると「 p が真で q が真のとき、 p ⇒ q は真。 p が真で q が偽のとき、 p ⇒ q は偽。 p が偽で q が真のとき、 p ⇒ q は真。 p が偽で q が偽のとき、 p ⇒ q は真。」ということになるのだが、表のほうがわかりやすいだろう。

p q p ⇒ q

ふつうの日本語で「⇒」にいちばん近い機能をもつのは、接続詞「ならば」だが、全く同じだというわけではない。たとえば p と q の両方が偽のときに p ならば q が真になる、といっても納得できない人も多いだろうし、無理に納得する必要はない。「⇒」が表しているのは、 p と q それぞれの真偽の組み合わせに応じて、必ず結果が一通りに定まるように人工的に取り決めたルールなのだから、「ならば」のルールと完全に一致するという考えのほうに無理があるのだ。とはいえ、ほかに適当な言葉が日本語にあるわけではないので、紛れのない場合には「⇒」と「ならば」をほぼ同じものとみなすこともある。

「すべてのカラスは黒い」を記号化してみよう

「すべてのカラスは黒い」は一つの命題である*2。一つの命題は一つの命題記号で置き換えることができる。たとえば次のように。

p
すべてのカラスは黒い

この命題の対偶は……?
駄目だ。一つの記号で表してしまったら、対偶命題を作る手続きが実行できない。二つの命題を ⇒ で繋いだ形に記号化しなければ。

p ⇒ q
すべてのカラスは黒い

そう、こんなふうに。
では、この記号化の際に用いられた「p」と「q」はそれぞれ原文のどの要素に対応しているのだろう?

p
すべてのカラス
q
黒い

駄目だ駄目だ。「すべてのカラス」も「黒い」も命題ではない。「すべてのカラス」の真偽を問うことなど不可能だし、「黒い」もそうだ。
よって、「すべてのカラスは黒い」を分析して、二つの命題を結合した形に書き直さなければならない。でないと、二つの命題記号の結合した形に記号化することはできない。
「すべてのカラスは黒い」は、少し間延びした言い方をすれば「何かがカラスであるならば、それは黒い」と言うことができるだろう。こう書き換えると「何かがカラスである」と「それは黒い」という二つの命題を析出することができる。では、記号化してみよう。

p
何かがカラスである
q
それは黒い
p ⇒ q
何かがカラスであるならば、それは黒い

かなり不自然でぎこちない言い回しだが、いちおう対偶命題を作れる形にはなっている。
では、実際に作ってみよう。

¬q
それは黒いということはない
¬p
何かがカラスであるということはない
¬q ⇒ ¬p
それは黒いということはないならば、何かがカラスであるということはない

駄目だ駄目だ駄目だ。「それ」って? 順番を入れ換えたせいで、参照すべきものがなくなって宙に浮いてしまっている。一歩譲って「それ」が指すものが特定できたとして、「何かがカラスであるということはない」はいけない。これは平たくいえば「カラスは存在しない」ということではないか!

何が問題だったのだろう?

結論から先にいえば、「すべてのカラスは黒い」は二つの命題を結合した形、すなわち「 p ⇒ q 」という形にあてはまるように分析することはできない。「すべての」がこの文全体を支配しているため、いくら二つの要素にぶった切ろうとしても、それぞれの要素が命題として完結したものにならないのだ。「何かがカラスであるならば、その何かは黒い」というパラフレーズではやや見通しがつきにくいかもしれないので、さらにくどい言い回しに変えよう。
「何であれ、それがカラスであるならば、それは黒い」
この文は「それがカラスである」と「それは黒い」の両方が「何であれ」の支配下におかれている。「何であれ」というのは原文の「すべての」の言い換えだ。この「何であれ」を無視すれば、いちおうは次のような記号化が可能だ。

p
それがカラスである
q
それは黒い
p ⇒ q
それがカラスであるならば、それは黒い
¬q
それは黒いということはない
¬p
それがカラスであるということはない
¬q ⇒ ¬p
それは黒いということはないならば、それがカラスであるということはない

ここで注意しなければならないのは、それぞれの文中の「それ」は上に「何であれ」がつくことによってはじめて指示機能を果たすことができるということだ。別の手段によって予め「それ」の指示対象が特定されているわけではない。ということは、「何であれ」を無視した今の段階では「それがカラスである」も「それは黒い」もそれぞれ単独で完結した文ではない。つまり、ここでは「p」も「q」も命題記号ではない。
では、「何であれ」をここに補ってみよう*3

何であれ p
何であれ、それがカラスである
何であれ q
何であれ、それは黒い
何であれ p ⇒ q
何であれ、それがカラスであるならば、それは黒い
何であれ ¬q
何であれ、それは黒いということはない
何であれ ¬p
何であれ、それがカラスであるということはない
何であれ ¬q ⇒ ¬p
何であれ、それは黒いということはないならば、それがカラスであるということはない

日本語独特の事情により、「は」と「が」がおかしくなるが、それには目をつぶることにしよう。で、最後の「何であれ、それは黒いということはないならば、それがカラスであるということはない」は縮めれば「黒くないものはカラスではない」だ。

時間がないので急ぎ足で強引な結論へ

「すべてのカラスは黒い」と「黒くないものはカラスではない」は論理的に同値である。前者を分析し、二つの命題を結合した命題のような形に変形し、そこから対偶命題を作るのによく似た作業を行えば後者が得られる。しかし、前者と後者は決して対偶の関係にあるのではない。そもそも「すべてのカラスは黒い」には対偶命題はない。
今見たように、本来は対偶命題を作ることができないような単純な命題についても、その内部構造の分析によって対偶命題に類似した命題を作ることができる道具立てを発明したのは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したドイツの論理学者ゴットロープ・フレーゲだった。彼の働きにより、論理学は飛躍的に発展を遂げた。
「対偶」という語の本来の用法からすると、「すべてのカラスは黒い」と「黒くないものはカラスではない」が対偶の関係にあるというのは間違いだが、この間違いが論理的に致命的なエラーだというわけではない*4。だから、結論としては、この文章で述べてきたのは瑣末なことで、目くじらを立てるほどのことはない。
真面目に読んでくれた人には申し訳ない。
ごめんなさい。

*1:既に知っている人にとっては時間の無駄なので次の節まで読み飛ばしてもらいたい。知らない人はぜひきちんと読んでほしい。きちんと読んでも説明が理解できなかったらごめんなさい。

*2:と言い切ってしまったが、ここには考えようによってはかなり微妙な問題が隠されている。ある言語表現を括弧で括るとその言語表現自体に言及することになるという慣例に従えば、ここで話題になっているのは文だということになる。そして、文と命題は文脈によっては厳密に区別されるべきものである。だが、この文章では文と命題の区別は行わない。「ある点においてはふつうは同一視して構わない事柄をあえて厳密に区別しようと試みている文章なのに文と命題をちゃんぽんにするのは不誠実だ」と誹られるかもしれないので、先に謝っておこう。ごめん。

*3:この「何であれ」も記号化できるが、そのための記号を導入すると話が長くなるので日本語のままにしておく。

*4:場合によっては致命的なエラーの引き金になるおそれもないわけではないので、自覚しておいたほうが無難ではあるけれど。