昔、携帯電話のない時代があった
リンク先の話題とは直接関係はないが、ふと携帯電話がなかった頃のことを思い出した。当時、出先で人と待ち合わせをするには、予め固定電話で連絡を取り合って日時と場所をきっちりと決めておく必要があった。
たとえば午前10時に渋谷のハチ公前とか難波のロケット広場で待ち合わせることにしたとしよう。無事10時に待ち合わせ場所に到着できれば問題はないが、山手線が遅れたり御堂筋線が運休したりして*1遅刻する可能性もある。その場合は、最寄りの公衆電話から待ち合わせ相手の自宅に連絡を入れ、現状を説明のうえ伝言を託す。相手も自宅に電話して伝言がないかどうか家人に確認する。こうやって意思疎通を図っていた。
今から思えば面倒なことをしていたものだと思うが、当時はこれが当たり前だった。当たり前が当たり前でなくなったのは1990年代半ばから後のことだ。そして、当たり前のことだが、当たり前が当たり前でなくなるのと同時に当たり前でないことが当たり前になっていった。
当たり前のことが当たり前でなくなり当たり前でないことが当たり前になる、という転倒は近年さまざまな分野で見られる。それぞれの事象を単独で捉えれば、進歩であり、改良であり、発展であり、より望ましい方向への変化であることのほうが多いのかもしれない。しかし、通念や常識が常に書き換えられ続ける状況は必ずしも人を幸福にするわけではないのではないかとも思う。うかうかしていると人格すら書き換えられてしまうのではないかという不安すら感じる。
不安だ不安だと叫んでみても始まらない。下手すれば危険な復古主義*2を誘発することにもなりかねない。今そうあるままに今を生きながら昔を切り捨てないためには、上記リンク先で強調されている2つの能力――
不安だ。