“文学少女”と秘密の書棚

最後の一撃 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-14)

最後の一撃 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-14)

のっけから恐縮だが、この記事はエラリイ・クイーンとは関係がない*1小説新潮 6月号*2の小説特集「最後の一撃」の一篇、米澤穂信『身内に不幸がありまして』を読んだので、その感想。
(以下、独断と偏見に満ちた感想文です。未読の方はご注意ください)
まず、驚いたのが作品の雰囲気だ。これまでの米澤作品のどれとも違っている。強いて似た作品を挙げるとすれば、近作『失礼、お見苦しいところを』だが、どこが似ているのかといえば、他の作品と似ていないという点くらい*3なので、これは苦し紛れのこじつけというものだろう。作者名を伏せれば、かなりの米澤ファンでも米澤穂信の作品とは気づかず、その代わりに別の某作家*4の名前を挙げるかもしれない。実際、「丹山因陽」*5とか、「村里夕日」*6などというネーミングには、某作家の影響が感じられる。それも、知らず知らずのうちに影響を受けてしまった、というのではなく、意図的に真似た、という感じだ。
これは何を意味しているのか?
某作家への挑戦状に違いない。
某作家と同じ媒体で、あえて某作家の雰囲気を真似てみせ、さらにあるモティーまでも踏襲してみせる。単なる「オマージュ」とか「リスペクト」などといったものではないのは明らかだ*7。そうなると、読者の側も身構えることになる。
さて、作者はいったい何を仕掛けようとしているのか?
きっと、某作家なら決してやらない類の結末を用意しているに違いない。そこまではレッサーパンダでもわかる。問題は、それがいったい何なのか、ということだ。
殺人事件が発生する。連続殺人だ。でも、犯人ははればれだ。こいつしかいない。
よろしい。では、動機は?
ああ、それらしい動機がありました。ちょっと苦しいけれど、いちおうの説明がつく。
ん、じゃあ、どこに「最後の一撃」が待ちかまえているのだろうか?
「最後まで読んでも、予想の範囲から一歩も外に出ませんでした。これは意外だ!」
まさか。
作中には何人もの大家の名前が出てくる。中には作品名まで言及しているものもある。たとえば、海野十三 地獄街道。これは未読だった。『身内に不幸がありまして』をきりのいいところまで読んだところでいったん中断して、先に『地獄街道』を読むことにする。こんなマイナー作品*8を取り上げてどうしようと思うのか。全然わからない。
う〜ん。
この展開だとアレしかないはずだし、アレだと全然意外じゃないし……。
考えても仕方がない。続きを読むことにした。
ちょっとおやっと思うこともあったが、概ね予想通りの流れが続き、最終ページの上段へ。ああ、なるほど、前半での言及にはこういう意味があったのか。教養不足ですみません。で、これで終わり?
終わりじゃなかった。最終ページ下段、その中ほどから一気に加速する。
あ。
ああ。
あああ。
そして、最後の一行。まさに「最後の一撃」だ。
頭の中をチェスタトンと大坂圭吉とホックと星新一が走り抜ける。ついでにカーター・ディクスンも(長篇だけど)。
感服しました。
うん、これは現段階での米澤穂信の一つの到達点*9だ。
一同、速やかに書店に赴き「小説新潮」を入手すべし。金がない奴は図書館に行け。
いいから、読め!

*1:と、いちおう断っておいたが、実はクイーンのこの作品と密接な関係があるのではないかという気がしてきた。ただし、事柄の性質上、その「密接な関係」がどのようなものかは明示することができない。

*2:リンク先は毎月更新されるので、来月には7月号の紹介ページになると思われる。

*3:もう一つ、タイトルもやや似ているが、そのタイトルが作中で果たす意味合いは全然異なっている。

*4:特にその作家名を秘す必要はないのだが、そのままずばり書いてしまうのもつまらないので、「某作家」と呼んでおくことにする。

*5:この名前は旧国名の「丹波」と「因幡」、そして地方名の「山陽」を連想させる。ということは、すぐ近くに伯耆や出雲がありそうな感じがする。

*6:字面を見ただけでは別に印象深い名前ではないが、このあっけらかんとした平凡さから、あの名前を連想する人も多いことだろう。

*7:いや、明らかではないかもしれない。でも、単なるオマージュだとつまらないので、ここはあくまでも挑戦だと捉えておくことにする。

*8:アンソロジーなどで見かけた記憶がないので、マイナーだと思うのだが、読んでみると凡作でも駄作でもなく、むしろ海野十三の数々の名作群と肩を並べる傑作ではないかと思った。本題から外れるので『地獄街道』の感想は割愛するが、ぜひ多くの人に読んでもらいたい逸品だ。

*9:「一つの」と限定句を入れたのは、ほかにも到達点があるからだ。