わたし負けましたわ

講談社ノベルス綾辻・有栖川復刊セレクション第1弾。同時発売は『急行エトロフ殺人事件 綾辻・有栖川復刊セレクション (講談社ノベルス)』と『狂い壁 狂い窓 綾辻・有栖川復刊セレクション (講談社ノベルス)
』で、どちらも傑作。こんな傑作が「復刊」されないと入手困難だというのは、日本の出版流通業界はどこかおかしい。今回配本の3冊のうち、唯一未読だった『敗北への凱旋』もきっと面白いに違いないと思い、読んでみることにした次第だ。
で、読んでみた。
うん、傑作だ。
おしまい。
と思ったが、もう少し書いておこう。
傑作には違いないのだが、かつて『急行エトロフ殺人事件』や『狂い壁、狂い窓』を読んだときに感じた高揚感はなかった。いくつかひっかかるところがあったからだ。
まず第一に、この小説いちばんの大仕掛けである例のアレ。某有名短篇に似たネタだが、某短篇では殺人後の隠蔽工作として用いられているのに対して、『敗北への凱旋』では殺人そのもののトリックになっている。どちらにしても無茶なネタには違いないのだが、読者にあら探しをする余裕を与えずに一気に畳み込むことができる短篇*1とは異なり、長篇では読者に考える隙を与えてしまう。連城三紀彦ほどの文章の魔術師であっても綻びを繕いきれなかった、というのが素直な実感だ。
第二に、暗号の組み合わせ。ひとつひとつの暗号は非常に美しく作られているのだが、それらの暗号の組み合わせ方の構図のほうはさほど美しくない。というか、はっきり言えばアドホックだ。楽譜暗号一本勝負ならスマートだったと思うが、メッセージの全文を音楽に溶け込ませるのは無理だったのか、プロットの要請で散らばったピースを少しずつ集める必要があったからなのか、実際にはそうなっていない。
第三に、事件の鍵となる人物に関する推理を巡るあれこれ。最終的には当人の告白によって謎が解決されるのだが、それ以前のディテクションの過程に飛躍がある。探偵側のある人物はもしかすると『敗北への凱旋』の解決場面を先に読んでカンニングしていたのかもしれない*2、と思ってしまった。こんなとき「神の如き叡智を備えた名探偵」は便利だよな、と思う。探偵役が亜愛一郎か御手洗潔だったなら、この不自然さは相当減じられていただろう。だが、超人探偵が登場してしまうと、この小説は崩壊してしまう。これは致し方ない。
ひっかかった点をいくつか挙げてみたが、いずれも細部の技術的な手直しでどうこうできるものではない。ということは、いま、現にある、この形が最良のものだということだ。最良の表現形態をとってさえ空中分解すれすれの危うさを孕んでいる奇蹟のようなミステリ*3、と言っておこう。

*1:某短篇では推理も捜査もなく、事件の概要を説明した後、すぐに探偵が真相を語り、「いったいこの探偵はどうやって事実を察知したのだろう」と思う間もなく幕を閉じる。

*2:これは暗号解読シーンでも思った。

*3:これを讃辞ととるかどうかは、あなたにお任せする。また、この評言の妥当性についても同様。