騙し絵のように

インシテミル

インシテミル

なお、このミステリは一人称で記述されているにもかかわらず、主語が主人公の名前の見かけ上の三人称になっています。読んでいくと、まるで推理モノのビデオゲームをやっているかのような感覚になるのは、この文体のためでしょう。4ページの警告から邪推するに「嫌だな。例え人殺しが容認されようとも、これは推理ゲームですよ。ゲーム。シャレをわかってくださらないと困りますね」という心情の発露でございましょうか。

これを読んで飛び上がるほど驚いた。
プロローグにあたる「Day before」とエピローグにあたる「Day after」には結城理久彦以外の人物の視点で描かれたパートもあるが、本篇は一貫して結城の視点のみで記述されている。すなわち、彼が見聞きしたことと彼が考えたことだけが書かれているわけだ。それは初読時から気づいてはいた。だが、本篇が結城の一人称で記述されている可能性など、つゆほども考えてはいなかったのだ。
慌てて『インシテミル』を繙いてみる。
なるほど、確かに結城のことを「彼」という代名詞で指示している箇所はない*1。だが、39行目8行目と12行目で「彼ら」という代名詞が用いられているではないか。その中には結城も含まれるのだから、『インシテミル』は一人称小説ではあり得ない!
いや待て、本当にその「彼ら」の中に結城も入っているのか? そうではないという解釈もできるのではないか。もし、その「彼ら」が結城を除く登場人物たちのことを指すのだとすればどうだろう。結城は「彼ら」に含まれないが、この場面では「彼ら」と同一行動をとっているため、実質的には「彼ら」についての記述が語り手である結城にも当てはまるのだと解釈してみる。
うーん、ちょっと不自然だが、この程度なら叙述トリックを仕掛けたミステリでは許容範囲だろう。
もっとも仮にこれが叙述トリックだとしても、そのミステリ的効果のほどはよくわからない。「三人称だと思わせておいて、実は一人称だった」という叙述トリックを用いたミステリはいくつか存在するが、いずれも読者の目から視点人物を隠蔽するためにトリックが用いられている*2。視点人物についての誤認を伴わない『インシテミル』の場合にはそのような隠蔽効果はない。
だが、『インシテミル』を一人称小説として読むことに全く意味がないわけではない。たとえば冒頭4ページめの意味深長な警告を見よう。素直に読めば作者から読者に向けて発せられたもの*3と考えられるが、もしこの小説が結城の一人称で語られているのだとすれば、この警告は語り手である結城が発したものと解釈する余地が生まれる。三人称の視点人物が読者に対して語りかけることはできないが、一人称の語り手にはそれができるのだから。そうすると、「不穏当かつ非倫理的な出来事」という言い回しの意味合いも違ってくるのではないか……。
こんなことをあれこれ考えてみたが、やっぱり『インシテミル』は三人称小説だという結論に達した。理由は3つ。

  1. 結城は会話では「おれ」と言っているのに、地の文で「結城」と自称する理由がわからない。
  2. 「Day before」と「Day after」が一人称でなく本篇だけが一人称というのは不格好すぎる。
  3. もしこれが叙述トリックだとすれば前例がない*4のだから、もっと効果的な使い方*5ができたはずなのに、それを行っていない。

というわけで、騙し絵体験は不発に終わったが、『インシテミル』を再読したのは無駄ではなかった。いくつか興味深い発見があったのだ。だが、その発見について語るのはまた別の機会にしておこう。

*1:見落としがあったらごめん。

*2:叙述トリック分類を参照されたい。

*3:37ページでは同じ警告が作中の〈実験〉の主催者側の人物から参加者へ発せられる。

*4:いや、案外もう誰かが書いているのかも……。

*5:たとえば「彼ら」の中に結城が含まれないことを利用した引っかけは結構使いでがあるように思う。