文化の敵は市場原理主義だけとは限らない

文化の需要 - good2nd経由でasahi.com:橋下知事が芸術論「残る文化は必死さが違う」 - 政治を読んだ。知事の発言はいつもの橋下節なので特に目新しいところはないが、学生側の「弱肉強食」発言は少し気になった。もっとも、この種の記事は語気の強いところだけ抜き出して紹介するが常なので、文脈がわからないと批判もしづらい。
ここでちょっと脱線。ふと思いついて記事の一節を改変してみた。

橋下知事が「僕は学者や有識者に、人間にとって有用性がなくても守るべき自然を守れと批判されているが、有用性があろうがなかろうがお金をつぎ込むべきか」と問いかけると、「自然を費用対効果で考えるべきではない」との意見が出た。ただ、「有用性がなければ消えるのが当然。弱肉強食だと思う」という声もあった。
最後は「残る種と残らない種の違いは、生き残りを図る生物の必死さ。消えそうだからといって、行政が特定の何かに金をぶち込むべきじゃない。それぞれの動植物がまず努力すべきだ」との持論を展開した橋下知事。「エコロジストと言われる人たちのしょうもない意見より、みなさんの意見は心に響く意見ばかりでありがたい」と語った。

ここまで余談。
さて、

ただ「需要がなければ消えるのが当然」などという発想は、「良いものは売れる」「売れるものは良い」という循環論法的な価値観に基づいているのでしょうけれど、もちろんこんなのは市場原理主義イデオロギーと呼ぶにふさわしいものであって、ものの良し悪しを学ぶ学生は当然こういう価値観を相対化していかなければならないと思います。文化の価値をしっかりと理解できるよう学んで、その上で現実を見るならば、良いものが必ずしも売れるわけではない、という例は無数にあるはずです。それが現実なのです。「売れなかったということは、良くなかったのだ」という考えは間違っていて、「良いものを作ったが、売れなかった」という現象は現実に起こるのです。

これには全く同感だ。ただし、同感しているからといって無条件で受け入れるというわけではない。なぜなら、同感することでロジックのミスや弱点に気がつかずに過ごしてしまっている可能性があるからだ。本当は個人的な嗜好や感情とは別に、粛々と批判的検討を行うべきなのだろうが、そんなことはそう簡単にできない。できれば、市場原理主義者とまでは言わずとも、市場に対してより信頼を置いている人*1からの批判的意見を聞いてみたい。
とりあえず、今言っておきたいのは、文化行政への縮小圧力は必ずしも市場原理主義イデオロギーに基づくものだけではないということだ。華々しく(?)展開されている橋下改革ばかりが注目を浴びているが、全国各地で文化関係予算はじわじわと削減されつつある。たとえば、滋賀県の状況については、福祉と文化を秤にかけりゃ福祉が重たい地方行政を参照していただきたい*2。福祉と文化のバトルの背景には「小さな政府」を目指す動きがあり、さらにその背景には市場原理主義イデオロギーがあるのだ、といえば確かにそうかもしれないが、少なくともここでは文化行政の直接の敵は市場原理主義ではなく財政難だ。そもそも橋下氏が大阪府知事になれたのも、財政難という強い味方があったからではないか。
ところで、この話題と関係があるかどうかはわからない*3が、首長部局に移管された図書館って…「図書館同種施設」?を読むと、文化行政が今大きく変質を遂げようとしていることが窺える。意外と知られていないことだが、地方自治体の文化行政の主な担い手は知事や市町村長ではなく教育委員会だということになっていて、法制度上は知事や市町村長は教育委員会に対して職務上の命令や指示を行うことはできない。大分県の例の事件を挙げるまでもなく教育委員会の風通しの悪く腐敗の温床になりやすい体質は以前から非難されてきたが、その「風通しの悪さ」が生々しい社会情勢の波から文化行政を守る防波堤の役目を果たしてきたという側面もある。しかし、文化行政を首長部局に移管することが可能になった今、大衆から多数決で選ばれた知事や市町村長がその都度の「民意」をストレートに文化行政に反映させることができるようになった。公立有料図書館が実現するかどうかはともかくとして、文化と行政の関わりについて考えるとき、このことはもっと注目されていいように思う。
最後にもう一点。

世の中には産業として成立している文化もあればそうでないものもあります。「弱肉強食」だの「必死さが違う」だのいうのは、産業として成立するかどうかを文化の優劣と見るような、浅はかで愚かな見方です。たとえば全国各地には公立美術館がありますが、公的資金なしでやっていける館はおそらく一つもないはず。金持ち達がもっと気前よく寄付してくれたりする社会ならそれでやっていけるでしょうが、それでは足りない以上、公共と大衆が資金源となります。公共は支援せず、大衆が直接金を出してくれる文化だけに生き残る資格があるとするのであれば、これらの美術館は全て消えるしかない。僕はそんな世の中に暮すのはまっぴら御免ですね。

文中で強調しておいた箇所に関して、公益法人制度改革 - Wikipediaにリンクしておこう。この改革を「金持ち達がもっと気前よく寄付してくれたりする社会」の実現を目指すのだと評すると矮小化しすぎだろうとは思うが、そういう側面もなきにしもあらずということで。
「民間が担う公共」といえば、しばらく前に流行した指定管理者制度は公立美術館や博物館についてはあまりうまく行かなかったっぽい雰囲気が徐々に明らかになってきているが、公益法人制度改革はどうなることやら*4

*1:いま念頭においているのは高橋直樹氏だが、市場尊重の立場で芸術について語れる人なら他の人でもいい。

*2:これは今年3月に書いた記事。その後どうなったのかは調べていなかったが、びわ湖ホールを応援する会 署名活動の経過によれば、とりあえずびわ湖ホール予算削減幅は原案に戻されたようだ。だが、代替財源が財政調整基金の取り崩しだそうなので、この問題はたぶん来年再燃することだろう。

*3:でも、きっと関係があるはずだと思う。

*4:今のところ、この改革と連動して公立博物館を財団法人化するという話は聞かないが……。