「推理小説」と「ミステリー」

推理小説」という言い方。中国では英語のdetective storyは探偵小説ならぬ「偵探小説」だが、中国で「推理小説」という言葉は殆ど見たことがない。日本では何時頃から「推理小説」という言葉が使われ始めたのか。松本清張がブレイクした辺りから? 私が子どもだった頃は、既に探偵小説というのはオールド=ファッションドな言い方で、「推理小説」とかミステリーという片仮名言葉が使われていた。「推理小説」というのは英語だったらどんな言葉に対応するのかと思って、手許の和英辞典を見てみたら、detective storyまたはmystery storyまたはcrime storyだった。英語圏においては、探偵小説と「推理小説」との断絶がないのか。

推理小説」という言葉は木々高太郎の造語だという説がある。木々高太郎本人が「自分が作った言葉ではない」と言った、という話をどこかで読んだ記憶もある*1が、いずれにせよ、木々高太郎が監修者として関わった雄鶏社の推理小説叢書*2で用いられているのだから、松本清張の登場*3よりも前のことだ。

推理小説という名称は、木々高太郎が雄鶏社にて科学小説を含む広義のミステリー叢書を監修した際、江戸川乱歩水谷準に提案されて命名したものと伝えられる。このほか探偵小説、ミステリー小説という呼び名もあるが、前者の名称は「偵」の字が当用漢字制限を受けたために用いられなくなった。犯罪小説とかなり重なる部分もあるが、完全に同義という訳ではない。

【略】

日本ではかつて英語の"Detective Novel"、"Detective Fiction"の訳語として探偵小説と呼ばれていたが、第二次大戦後、「偵」の字が当用漢字に入れられなかったため、「探てい小説」と混ぜ書きで書くことになった。しかし、これを「みっともない」として「推理小説」という言葉が作られ、一般的になった。1946年に雄鳥社が「推理小説叢書」を発刊した時に、その監修者の木々高太郎命名したという説もある。「偵」の字は1954年の当用漢字補正案で当用漢字に入れられたが、既に「推理小説」という言葉が広まっており、「探偵小説」に戻されることはなかった。「探偵小説」は、ジャンル名としては廃れていったものの、ロマン的な響きを持つため、未だ愛用している人も多い。

「探偵小説」から「推理小説」への移行については、昭和20年代の文献をみるのがいちばんだが、いちいち探すのは面倒なので青空文庫へのリンクでお茶を濁しておく。本当は、木々高太郎江戸川乱歩を参照したいが、残念ながら両者とも著作権が存続しており、青空文庫には一作も収録されていないので、かわりに坂口安吾の探偵小説/推理小説関係の文章にリンクする。

  1. 推理小説について(1947)
  2. 探偵小説とは(1948)
  3. 探偵小説を截る(1948)
  4. 坂口安吾 推理小説論(1950)

4つとも本文中で「探偵小説」と「推理小説」の両方が用いられているが、明らかに区別されているのは4だけで、あと3つは同義語として用いられているのかどうかはよくわからない。
ちなみに、日本において推理小説が一部のマニア向けの特殊文芸から大衆向けの娯楽小説へと脱皮したのは、仁木悦子の『猫は知っていた』*4からだと言われている。おそらく、「推理小説」という言葉が一般読者に広まったのはこの頃ではないかと思われる。

日本における「ミステリー」という片仮名言葉は早川書房の(後にハードボイルド作家になる生島治郎が編集長を務めていたこともある)『ミステリー・マガジン』と「ポケット・ミステリー」シリーズを嚆矢とするというのは外れていますか。

早川書房には『ミステリー・マガジン』という雑誌もなければ、「ポケット・ミステリー」というシリーズもない。どちらも音引きなしの「ミステリ」だ。たかが音引きひとつの違いだが、少なくとも昭和後期の推理小説史を語るうえでは、この違いは大きい*5。昭和30年前後から昭和の終わり頃まで海外翻訳物の二大出版社だった早川書房東京創元社がともに「ミステリ」を採用していたこと、その一方でより大衆的な媒体では「ミステリー」のほうが一般的だったことが、これらふたつの表記のニュアンスの違いの背景にある。
ところで、「ミステリー」という片仮名言葉についても青空文庫で調べてみたが、「神秘」という言葉へのルビなどでは戦前にも用例はあるが、文芸ジャンル名として用いた例は発見できなかった。
微妙な用例をふたつ紹介しておく。

探偵小説は日常到る処に在る。諸君がそこで呼吸していることが既に驚くべきミステリーであり、トリックであり、スリルでなければならぬ。

というところで、梅野十伍は後を書きつづけるのが莫迦莫迦しくなって、ペンを置いた。彼は好んでミステリーがかった探偵小説を書いて喝采を博し、後から「ミステリー探偵小説論」などを書いて得意になったものであったが、これではどうも物になりそうもない。彼は火の消えてしまった煙草にまたマッチの火を点けて一口吸った。

戦前、あるいは戦後の一時期に、「神秘」や「謎」を「ミステリー」、文芸ジャンルを「ミステリ」と書き分ける慣習があったのではないかと想像しているのだが、それを裏付ける証拠は見つからなかった。

*1:日本探偵小説全集〈7〉木々高太郎集』の解説だったと思うが、現物が手許にないので確認できない。

*2:1947年創刊。ここを参照。

*3:1951年に「西郷札」でデビュー。初期は純文学系の作家だったが、1958年に刊行された『点と線』がベストセラーとなり、推理作家として知られるようになった。

*4:1957年の第3回江戸川乱歩賞受賞作。なお、江戸川乱歩賞が公募形式になったのはこの回から。

*5:これも現物が手許にないで参照できないが、『夜明けの睡魔―海外ミステリの新しい波』や『ミステリーの社会学―近代的「気晴らし」の条件』で「ミステリー」と「ミステリ」の違いを論じていたと思う。