「論理と偽の仮定」への若干のコメント

論理学で、

「AならばBである」

という文で、Aがありえない場合は、Bに何をもってきても文は真になります。

これは全く間違いというわけではないが、ちょっと誤解を招く説明だ。
「A」と「B」はともに文だ。たとえば「雪は白い」とか「柴田南雄は作曲家である」などのように。
そうすると、「AならばBである」はどうなるか。「雪は白いならば柴田南雄は作曲家であるである」となる。これでは日本語の文としておかしい。「は」と「が」の違いについては目をつぶるとしても「である」がダブるのはまずい。「AならばB」でなければならない。字面だけみると体言止めのような感じもするが、「B」が体言止めでなければ「AならばB」も体言止めではない。
さて、「AならばB」の真偽は何によって決まるのか? 「A」と「B」の真偽のみから決まる場合もあれば、そうでない場合もあるだろう。でも、標準的な論理学では「AならばB」の真偽が「A」と「B」の真偽のみから決まらない場合は取り扱わない。
「AならばB」の真偽が「A」と「B」の真偽のみから決まる場合に絞って整理すると次のようになる。

  1. 「A」が真で「B」が真のとき、「AならばB」は真
  2. 「A」が真で「B」が偽のとき、「AならばB」は偽
  3. 「A」が偽で「B」が真のとき、「AならばB」は真
  4. 「A」が偽で「B」が偽のとき、「AならばB」は真

1と2は直観的に理解できるだろうが、3と4はちょっと納得できないかもしれない。こうなっているのには理由があるのだが、それを説明すると長くなるので割愛する。とにかく、そういうふうになっているのだ、と思っていただきたい。
で、3と4から、「A」が偽なら、「B」が真でも偽でも「AならばB」は真だということがわかるだろう。上の引用文で言おうとしているのはこのことだと思われる。ただ、微妙に違っているところがある。
「A」がありえないがゆえに偽であっても、ありえるけれどたまたま偽であっても、とにかく「A」が偽でありさえすれば自動的に「AならばB」は真となるのだ。「A」がありえるのかありえないのかといったことは、「A」の真偽とは別の事情であり、標準的な論理学が取り扱う事柄ではない……と言い切ってしまったが、「ありえない=矛盾」ということなら話は少し違ってくる。このあたりの話もややこしいので省略。
……ここまで書いたところで、急に猛烈な眠気が襲ってきたので、これでおしまい。