事実は何に依存するか?

これを読んでむずむずしてきた。

これを書いた人は、「宇宙が消滅すれば、事実も消えてしまう」と考えているようにぼくには感じられます。そのわけは、たとえば「杉原千畝氏は6千人のユダヤ人の命を救った」とか「南京大虐殺によって×人(不明)もの中国人の命が奪われた」というような“事実”は、たとえ宇宙が消滅したところで無効になったりはしないだろうと感じられるからです。

でもほんとうにそうなんだろうか? なら“事実”はどういった形で存在していると言えるのか?

……ということをきちんと考えていくと、結局「その事実があったという信念が、それぞれの人の頭の中に存在する」ということになりそうな気がするのです。「誰もいない森の中で木が倒れたとき、音はしたのかしなかったのか」というあれと同じです。“過去”と似てるかも知れません。過去はどこかに存在するわけではなくて、記憶の形でそれぞれの人の頭の中にあるだけ、だと思う。

でもそれはあったんだよ!と言いたくなるのですが、「モノ」でも「空間の性質」でもない「事実という何か」が「ある」ということはいったいどういうことなのか?を考えると、いや〜それは個々人の脳内に……としか言えなくなるんじゃないでしょうか。

「誰もいない森の中で木が倒れたとき、音はしたのかしなかったのか」という問いに対して、「音はしなかった」と回答する人は、その根拠として次のように述べることだろう。「音とは単なる空気の振動という物理現象のことではなく、その現象が観測者に与える効果のことである。言い換えれば、音は観測者に依存する。誰もいない森においては空気の振動を音たらしめる観測者が欠けているため、そこには音はない」と。この見解には実は全く賛成できない*1のだが、それなりには筋が通っている。ただし、「音は観測者に依存する」という主張を受け入れるとしても、そこから「音は個々の観測者に依存する」ということが帰結するわけではない。「誰もいない森の中で木が倒れたとき、音はしたのかしなかったのか」という問いの場では、個々人への相対化は想定されていない。もし、そのような想定があるのなら、「誰もいない」などという表現ではなく「私がいない」とか「任意の人がいない」とか、そういった表現が用いられていたことだろう。
また、過去についての反実在論を主張する人でも、「記憶の形でそれぞれの人の頭の中にあるだけ」とは言わないのではないか。この種の哲学説のすべてのバリエーションを知っているわけではないが、少なくともマクダガードやダメットもそんな事を言っていないはず。
一見したところ客観的で自立しているように思われる事柄の根拠を人間に求めるという発想*2はわりとよくあって、各所で客観主義vs.人間中心主義の論争が起こっているが、それと単なる個人相対主義とはいちおう区別しておかなければならない。上記の文章では、「それぞれの人の頭の中」とか「個々人の脳内」*3という言葉が無造作に使われているようにみえたのが、むずむずしてきた理由だ。

*1:ある現象を「音」と表現するか「空気の振動」と表現するかは、単なる捉え方の違いであって、現象そのものは同一であると考えるため。そして、この場合に同一であるということは、必然的に同一である、とも考える。

*2:たとえば、宇宙論の分野での「人間原理」など。

*3:ところで、なんで頭や脳に限定した言い方をするのか、ということはちょっと不思議だ。記憶や信念を司るのは大脳の機能だというのは現代科学の知見に過ぎず、ラディカルな個人相対主義をとるなら、別に科学に縛られる必要はないと思う。