妊娠中のマラソンは愚挙か権利か?

「愚挙かつ権利」から「愚挙でなく権利でもない」まで4通りの場合分けが可能だろうから、「愚挙か権利か」という二者択一を暗示するような見出しは本当はまずいのだが、そこはご容赦ください。
さて、

自己満足のためにマラソンをするのは全然構いませんが、妊娠中にマラソン及びマラソンに備えてトレーニングを積む事に果たして意義があるかどうかになります。別に法律で決まっていないとは思いますが、夫婦で望んで妊娠した女性は、健やかな子供を産むように務める責務ぐらいはあると考えています。自己満足と責務のどちらが重いかの価値判断が問われると考えています。

わざわざ妊娠7ヶ月でマラソンを行なうことで、お腹の赤ちゃんにどんな影響があるかを普通の感覚なら考えます。マラソン参加は言うまでもなく自発的なものであり、誰かに強制されたものではありません。自分が妊娠中であっても走りたいという欲望のためだけに参加し、走った事になります。私は産科医ではありませんが、どう考えても胎児に好影響を与えるものと思えません。

この文章を読んで、妊婦に中絶権を認める立場の論者はどのように考えるのだろうか*1、と思ったのだ。
人工妊娠中絶と妊婦のマラソンは少なくとも2つの点で大きく異なっているように思われる。

  • 中絶の場合は結果の不確実さはほとんどない*2が、妊婦のマラソンの場合はどのような結果をもたらすことになるのかは後にならないとわからない。
  • 仮にマラソンの結果として流産または死産するとしても、その結果はマラソンという行為の目的ではない。

従って、中絶権を認める議論をそのまま延長して妊婦のマラソンに当てはめて自動的に何らかの結論を得るということにはならない。とはいえ、両者は全く独立だということもないだろう。たとえば海燕氏は、妊婦のマラソンについて果たしてどのような立場をとる*3のだろうか?
ところで、愚挙を称える暴挙 - 新小児科医のつぶやきでは、妊婦のマラソンそのものへの批判とは別レベルの批判も行われている。

子供の事は夫婦の問題であり、他人が口出しする問題でないとの意見も出るかもしれません。それも考え方と言えない事もありませんが、それでは愚挙を称賛している読売新聞は、もう暴挙としか言い様がないと考えます。もう一度、読売記事の見出しを読んでください、

  • 女性ランナー輝いた…妊婦さん完走、赤ちゃんも頑張った

妊婦ランナーを明らかに称賛しています。称賛するという事は、今後この記事に見習って妊婦ランナーが続出する事を称賛するという事です。妊娠7ヶ月の次は8ヶ月でしょうか。臨月ランナーが来年走れば大絶賛する気でしょうか。記者はマラソン取材で「こぼれ話からの美談を作れ」の指示を受けていたのかもしれませんが、愚挙が壮挙に見える感覚に信じ難いものを感じます。

1人の妊婦のマラソンは単なる個人的な愚挙かもしれないが。マスメデイアの報道を通じて2人め、3人めの妊婦ランナーが現れたとき、それぞれの妊婦の行動を「他ならぬ妊婦の精神と肉体の問題」と割り切ることはできなくなっているだろう。自己決定論ないし自己責任論を発想のベースに据える人は、この種の問題とどう折り合いをつけるのか、または折り合いをつける必要などないと考えるのか、それも気にかかるところだ。

参考
人工妊娠中絶と一貫性 - Log of ROYGB

最後に予断。讀賣新聞の元記事女性ランナー輝いた…妊婦さん完走、赤ちゃんも頑張った : 東京マラソン2009 : スポーツ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)の見出しを最初にみたとき、赤ちゃんが頑張ってマラソンを走ったのかと思ったのだが、本文中にはそのような記述がなかった。ということは、見出しの「赤ちゃん」とは妊婦ランナーの胎内にいる胎児のことを指しているのだろう。これはなんか変な感じがする。
いや、胎児を「赤ちゃん」と呼ぶのが変だと言っているのではない。「頑張った」という表現が変なのではないかと。胎児は自分の意志とは無関係にただ胎内で揺られていただけだと思うが、それでも「頑張った」と言うものなのだろうか?

*1:中絶権を認めない論者ならどう考えるのかという疑問もなくはないが、どちらかといえば中絶権を認める論者の反応のほうに関心がある。

*2:失敗して妊婦自身の心身に障ったり死んだりすることはあるだろうが、「中絶に失敗して元気な赤ちゃんが生まれた」という事態はまずないだろう。

*3:海燕氏に言及したのは、マザー・テレサは間違えている。 - Something Orangeで、身体の自己所有に基づく自己決定権の帰結として中絶権を認める議論を行っていたからだ。たぶん妊婦のマラソン海燕氏の関心領域からはややずれていて、あまり明確な意見や主張はないのではないかと予想するのだが。