「黒狼の揺り籠」他2篇

狼と香辛料〈11〉Side Colors2 (電撃文庫)

狼と香辛料〈11〉Side Colors2 (電撃文庫)

これは先月の新刊だが、今日ようやく読み終えたところだ。でも、前巻『狼と香辛料 X』は2月に出たのを4月下旬に読み終えたのだから、それに比べると随分と進歩(?)したものだ。
狼と香辛料 XI』には3篇収録されているが、そのうち取るに足らない*1前2篇は購入後ほどなく読んであったのだが、この巻のメインともいうべき「黒狼の揺り籠」の前に一休みしているうちに、一迅社文庫の5月の新刊が出てしまい、そちらを先に読むことにした。一迅社文庫はひとたび先送りするとずるずると積ん読状態になり、全巻読破のノルマが達成できなくなる恐れがあるためだ。
で、一迅社文庫を読んでいる最中に、たまたま日記でこんな事を書いたところ、その日のコメント欄に次のような書き込みがあった。

http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%BE%E3%81%A7%E6%9C%AC%E8%83%BD%E3%81%8B%E2%80%95%E3%83%92%E3%83%88%E3%81%A8%E5%8B%95%E7%89%A9%E3%81%AE%E8%A1%8C%E5%8B%95%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BBS-%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0/dp/4152087773
の本が、面白かったです。
本能とか、遺伝とか、その辺の言葉の概念のあいまいさを浮き彫りにしてくれました。

このコメントを書いた鶴屋氏は古い知人で、独特なマンガに詳しい人だ。マンガの好みがわりと合うので、勝手にマンガ読みの師匠に認定しているのだが、マンガ以外の本を薦められた記憶はあまりない。まあ、マンガの趣味が似ているからといって、その他のジャンルの本の趣味も似ているとは言えないのは当然のことで、たとえば哲学書だと鶴屋氏はカッシーラーとかジンメルとかを好んで読んでいるそうだが、どうもそういうごつごつしたいかめしい感じの哲学書に手を出す気にはなれない。あとは、小説の好みもかなり違っていたような……。
閑話休題
上で紹介したコメントを受けて、その場では

『本能はどこまで本能か』ですね。
面白かったと言われると読みたくなってくるのですが、いま積ん読本がやたらと多いので、手が出せるかどうか……。今月の出た『狼と香辛料』もまだ半分しか読んでいないくらいです。

とコメントをつけておいた。してみると、この時にはまだ『狼と香辛料 XI』の優先順位のほうが高かったことになる。だが、心の底では『本能はどこまで本能か』というタイトルに興味を惹かれていたのだろう。コメント返しをしたその日のうちに本を買ってきて、次のような記事を書いた。

本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源

本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源

昨日、本能とそうでないものとをどうやって見分ければいいのだろう?という文章を書いたら、コメント欄で薦められた本。

田舎の書店には当然のごとくこんな本は置いていないので、少し遠出をして大型書店で買ってきた。これから読む……と言いたいところだが、今月の一迅社文庫3冊のうちまだ1冊半しか読んでいないので、それが終わってから。

本当は、一迅社文庫のノルマを達成したら、次は読みかけで放置していた『狼と香辛料 XI』を読む予定だったのだが、『本能はどこまで本能か』を薦めてくれた鶴屋氏への義理もあるので、そっちは後回しにすることにしようと思う。

かくして、この瞬間に『狼と香辛料 XI』の優先順位が1ランク下がってしまった。
その後、一迅社文庫の5月の新刊を読み終え、『本能はどこまで本能か』を読み始めたが、一方でついふらふらと買ってしまったチリモン博物誌』に浮気したり、マンガをちょろちょろと読んだりして、方針通りの読書は遅々として進まず、あっちへふらふらこっちへふらふらと迷走を繰り返してきた。その辺りの細かい事情はここには書かないが、最近、読書メーカーを始めたので、そちらを見てもらえれば、いかに無駄とムラと無理の多い読書生活を送っているかがわかると思う。
さて、『本能はどこまで本能か』については、ついさっき

それはともかく、『本能はどこまで本能か』は非常に面白い本なので、みんな読むといいよ!

と書いたばかりだが、実はまだ134ページまでしか読んでいない。第1章、第2章あたりはすらすらと読めたのだが、徐々に専門的な話題に入っていき、これは襟を正して心して読まねば、と思うとペースが格段に落ちてきたのだ。そうこうするうちに6月も半ばを過ぎ、今週末にはまだ一迅社文庫の新刊が出るということに気づき、愕然とした。ああ、先月の一迅社文庫以降、ライトノベルを1冊も読んでいない!
このまま今月の一迅社文庫発売日までじっとしていると、また他のラノベを断って専念することになる。その前に、せめて読みかけの『狼と香辛料 XI』だけでも読んでおこうそうしよう。
かくして、この瞬間に『狼と香辛料 XI』の優先順位が1ランク上がってしまった。
そんなこんなで、なぜ『狼と香辛料 XI』を今の時期に読んだのかという事情を説明するだけで相当長く書いてしまった。この上さらに詳細な感想文を書くのは面倒だし疲れるので、そっちは簡単にすませておくことにしよう。
さて、「黒狼の揺り籠」は、『狼と香辛料』の5巻、8巻、9巻に登場するエーブが主人公の番外篇だ。これを「番外篇」と表現するのは個人的には非常に不本意だ。というのは、私見では『狼と香辛料』のヒロインはホロからエーブに交替しているのであり、エーブが主人公のエピソードのほうが「本篇」と呼ばれるべきなのだから。だが、ひとりで駄々を捏ねていても仕方がないので、ここは一歩譲って番外篇と認めておいてやることにする。
「黒狼の揺り籠」でエーブはフルーフという名で登場する。ミステリ作家なら、エーブとフルールが同一人物であることを隠しておいて、最後の最後にそれを明かすというテクニックを用いるところだが、支倉凍砂はそのような常套手段を用いず、あとがきでさっさとネタを明かしてしまっている。ああ、もったいない*2。このフルール、本篇のエーブとは性格が全く異なり、没落して商人に身を落としたものの貴族的な甘さが抜けない「お嬢様」として描かれている。その一方で、髪をばっさりと切るエピソード*3などに後年のエーブに通じる決断力の片鱗が見られる。このエピソードのほか、ミルトンと初めて握手をしたときのフルールの手の描写など、女性特有のきめ細かな文章がフルールという人物に命を吹き込んでいる。
フルールは富裕な商人に家ごと身を買われた上、その商人も破滅して死に、昔の女中と元夫の部下と3人で慎ましく暮らしているが、そこに儲け話が持ち込まれて……というお話。まるで、山文京伝を思わせる転落の構図に、「ああ、このままフルールはどこまで堕ちてしまうのか!」と昏い関心を掻き立てられる。
余談だが、昨日、上で言及した鶴屋氏に

ところで、今「黒狼の揺り籠」を読んでいるところです。フルールかわいいよフルール。でも処女厨にはお薦めできない。中古だっていいじゃないか、ヨゴレ役だもの(みつを)。

とメールに書いて送った*4ところ、

フルールが中古だとはどこにも書かれていませんよ! 世界には子供を産んでいるのに処女だと信じる人たちがたくさんいるので、油断してはいけません。

という返信がきた。
その時はまだ「黒狼の揺り籠」を読了していなかったのでわからなかったのだが、最後まで読んでみても、なるほどフルールと元夫の性的交渉については何も書かれていなかった。一方で258ページ12行目のハンスの台詞や269ページ3行目のフルールの台詞などに、色気も艶もない冷徹なリアリズムが如実に表れているのだから、これは意図的な省筆とみるべきだろう。このようなバランスの取り方に支倉凍砂の深謀遠慮が窺われる*5。ただ、この点に限らず、「黒狼の揺り籠」全体に言えることだが、ライトノベルというか娯楽小説の筆法から大きく外れているような印象も受ける。うまく説明できないが、ある意味で純文学を指向している作品のように思えるのだ。それはそれで悪いことではない。でも、やっぱりこの文体では純文学は無理だろう、とも。
最後に不満を一点。フルールが商売に失敗するくだり、そして、最後の見せ場とも言えるフルールからエーブへの改名には、泡坂妻夫の某長篇や土屋隆夫の某短篇で用いられたのと類似したネタが使われているのだが……それ、異世界の言語でやっちゃダメ!

*1:従って感想文も書かない。

*2:もっとも、カバー見返しでも「黒狼の揺り籠」がエーブの過去の話だということは明かされているし、そういうネタばらしがなくとも『狼と香辛料』の本に収録されているだけでバレバレだろう。

*3:170ページから171ページ。

*4:「中古」という蔑称を用いているが、これはその直前に書いているとおり、いわゆる「処女厨」を揶揄するために使ったものなので、その点を含んで読んでいただきたい。

*5:それとともに、表面的な記述にのみ着目して、「中古だとはどこにも書かれていません」などと書いてしまう鶴屋氏の読みの浅さも窺われる。