「批判するだけなら評論家と同じ」と批判するだけなら評論家に劣る

ついカッとなって見出しを書いた。
冷静になって考えてみれば、本文として書くことは何もなかった。
おしまい。

追記

上の文章をアップしたところ、鶴屋氏から次のようなコメントが寄せられた。

「批判するだけなら評論家と同じ」が成立するなら、「「批判するだけなら評論家と同じ」と批判するだけなら評論家」と同じ?
「批判するだけなら評論家と同じ」が成立しない場合だけ、見出しが成立する?

考えててややこしくなってしまったので、コメントしました……。

まさか、思いついてから書き上げるまでに3分しかかからなかったような書き飛ばしの駄文にコメントがつくとは思ってみなかった。せっかくなので、少し時間をとって考えてみることにしよう。
「批判するだけなら評論家と同じ」と発言が発せられる状況としてごく自然に想定されるのは、たとえばこんな場合だ。
A氏が何か活動を行おうとしているか、または現に行っているときに、B氏がその活動内容に不都合や難点があることを指摘し、その活動を非難したり、やめさせようとする。しかし、B氏はA氏が当該活動を通じて目指している事柄を達成するための別の手段を提案しない。要するに対案がない状況だ。このとき、A氏かまたはA氏に近しい立場の人がB氏に対して投げかける言葉、それが「批判するだけなら評論家と同じ」だ。
ここで「評論家」は、「評論活動を生業にしている人」というような価値中立的な意味合いではなく、マイナスの含みを持っている。そのようなレッテルをB氏に貼り付けることによって、B氏に対する非難を表明しているわけだ。「誰であれ批判するだけなら評論家と同じだ。B氏は批判するだけだ。ゆえに、B氏は評論家と同じだ」という推論が隠されている。
「批判するだけなら評論家と同じ」という発言は普遍的な事柄についてだけ述べ、B氏の批判という個別の事柄についてはあえて何も言わないでおくことにより、ストレートにB氏を非難する以上の効果を狙ったものとなっている。
では、「批判するだけなら評論家と同じ」という発言が、本当に掛け値なしに普遍的に成り立つものだと仮定するとどうなるか。「批判するだけなら評論家と同じ」という発言自体が、その言葉が投げかけられた相手方に対する批判となっているのだから、当然、その批判にも適用されるはずだ。つまり、「批判するだけなら評論家と同じ」という発言により批判するだけなら、やはり評論家と同じということになるだろう。
一方、この記事の見出しはそうはなっていない。「批判するだけなら評論家と同じ」という批判は、評論家と同じなのではなく評論家に劣ると言っているのだから。劣るということは、同じではないということでもある。従って、「批判するだけなら評論家と同じ」という発言は、少なくともその発言自体に適用された場合には成立しない、ということを見出しは言っていることになる。
というわけで、鶴屋氏のコメントは、この見出しを論理的に分析した結果、当然にたどり着くものだと言える。
……でも、よく考えると、「劣るということは、同じではないということである」というのは、優劣という尺度で測られる量についての言明であり、論理にではなく数学に属する事柄だ。「批判するだけなら評論家と同じ」が成立しない場合だけ、見出しが成立すると言えるためには、「劣るということは、同じではないことである」という言明を別に前提として立てるか、論理の枠を超えて数学的分析に踏み入るか、どちらかでなければならないのではないか?

考えててややこしくなってしまったので、これでおしまい。