幸せって何だっけ?

その1

今朝、出勤途中に駅で電車を待っているときに、ふとこんなことをTwitterでつぶやいてみた。

特に深い考えがあったわけではなく、何となく言葉にしてみただけなのだが、予想に反してリプライされた。
「同意しづらい」と言われると、「まあ、同意しづらいだろうなぁ」と自分でも思うくらいなので、特に反論する気はないのだが、考えを整理する意味も込めて、次のように書いた。
これで考えが整理できたのか、それとも逆に拡散してしまったのか、後から振り返ってみると、どちらなのかよくわからないところもある。
この書き方だと「しあわせにはさまざまなかたちがある」は誤りでも、「しあわせにさまざまなかたちを与えることができる」なら成り立つ、と言っていることになりそうだが、果たしてそれでいいのかどうか。
また、「しあわせそのもの」などというものを前提としてしまっていいのかどうか、という疑問もないわけではない。
まあ、もともと深い考えなしに始めた話なので、これ以上掘り下げることは今のところできない。

その2

そもそも、なんでこういう話題を思いついたのかといえば、つぶやいた時には特に意識していなかったものの、先日読んだある文章が心のどこかに引っかかっていたからだろうと思う。

しかし、ここでいいたいのは、それこそが本当の「幸せのかたち」だということではない。幸せには、無限の「かたち」があり、どのひとつを取っても、奇妙でないものはない、ということをこそ述べたいのだ。たしかにある「かたち」は一般的であり、べつの「かたち」は奇矯であるように思えるかもしれない。

とはいえ、あるひとつの「幸せのかたち」を崇め、それだけが唯一の幸福なのだと思い込むことが病的であることは、先に述べたとおりだ。ぼくたちの幸せはどこまでも多彩かつ多様なのだ。あるひとは切手の収集にたまらない歓びを憶え、またあるひとは釣りの追求にしか幸福を感じることができない。そのどのひとつを取って見てみても、不思議でないものはない。

恋人もなければ結婚の予定もない、という点では海燕氏と似た境遇ではあるのだが、どうもこの文章には首を傾げたくなる。ただ、それが、「かたち」を強調する書き方への反発だったのかといえば、そういうわけでもないようだ。唯一性とか定型性というような小難しい話ではなくて、もっと別のことだったのではないか。

ある一冊の本を紐解き、読み進め、物語のなかに没入し、主人公の活躍に一喜一憂するとき、ぼくは本当に幸せだと思う。あるいは、それを単なる代替行為と見るひともいるだろう。本当の「幸せ」を手に入れられないから、かわりのもので満足することにしているのだ、と。そうではない。そうではなく、ぼくは、自分以外のひとの物語を楽しむことによってのみ、真に安らぎを知ることができる人種なのだ。

【略】

ぼくの場合、幸福はいつも物語のなかにあった。だから、新しい年が生まれ落ちようとしているいま、新たに本を開いてみようと思う。ページを開くと、たちまち物語が立ち上がる。主人公たちがそこから生まれ、新たな冒険と、活躍と、運命を生き始める。もう目を離すなんてできない。ああ、とぼくは思う。何と幸福なのだろう。面白い物語がここにある。それだけで人生はおおむねOKだ。

ここで語られているのは、「幸せ」とか「幸福」という言葉から少しずれているのではないだろうか? 大きく逸脱しているのではないので、さほど違和感はないかもしれないが、本を開くたび、物語が立ち上がるたびにあらわれるのは、幸福感ではあっても幸福ではないのではないか、そう思えるのだ。それは何も物語が与えてくれるのが幸福の代替物だということではなくて、単に言葉の使い方の問題だ。
海燕氏の件の文章は、幸福や幸せ、あるいは充足について、それらを感じたり思ったり実感したりする場面を具体的に想定して書かれている。

ひとが「幸せ」を実感するのはどんな時だろう? それはおそらく、何かしらの望みが叶った時だろう。欲望が満たされた時、と言い換えてもいい。長年望み続けたことが現実になった時、ひとは魂の充足を感じるものだ。

望みが叶った時に充足を感じるということが幸福と何らかの関係があるということは間違いない。幸福についての欲求充足説という学説もあるくらいだ*1。だが、両者は全く同じことだというわけではない。たとえば、あなたが長年、バナナぜんざいを食べたいと願っていて、2012年2月12日午前7時45分にようやく望みが叶ったとしよう。あなたは喜びに打ち震えながらバナナぜんざいを10分かけてゆっくり食べ、その後15分間、食後の余韻に浸ったとする。この場合、あなたの充足感は2012年2月12日午前7時45分から同日午前8時5分まで続いたことになる。では、「あなたは2012年2月12日午前7時45分から同日午前8時5分までの25分間幸福だった」と言えるだろうか? これは何かおかしくはないだろうか。

その3

恋人もいなければ結婚の予定もない、それでもぼくの人生がハッピーな理由。 - Something Orangeの見出しにも出てくる「恋人」と「結婚」は、ある種の人間関係を象徴している。「ある種の」というのは、バナナぜんざいを食べる程度の短い時間では完結しない種類の人間関係だ。始まってから終わるまで25分の恋人関係が絶対ないとは言い切れない。たとえば、飛田の「料亭」で繰り広げられる「恋愛」では、そのような関係があるらしい。詳しくは『さいごの色街 飛田』を参照されたい。しかし、それはごくごく稀な事例だろう。
要するに、充足感にせよ幸福感にせよ、何かを感じる、思う、実感するということと、幸せである、幸福であるということとでは、通常想定されている時間的スケールが違っているのだ。たとえて言うなら、幸福感は満潮であり、幸福は大潮だ。
物語が人を幸せにするというのは、あり得ないことではない。けれども、それは、一冊の本とともに現れては消えていくものではなくて、充足感を与えてくれる良質な物語がある程度の期間にわたって持続的に供給されるという環境が整っているということであり、また、さまざまな物語を受け容れ、受け止めても感性が磨耗せず、物語の楽しみを持続的に味わうことができる心性を持っているということでもある。
海燕氏の文章を読むと、必ずしも持続性が欠如しているというわけではないのだが、どちらかといえば刹那的な「感じ」にやはり力点が置かれているように思われる。
ところで、恋人もいなければ結婚の予定もない、それでもぼくの人生がハッピーな理由。 - Something Orangeトラックバックを辿って「幸せ」という実体が語られるとき - 烏蛇ノートを読んでみると、今述べたのとは少し違った視点だが、やはり「幸福」という言葉の使い方についての検討を通じて、海燕氏の元記事に稀薄な「時間」というファクターを取り入れた考察が展開されていて、非常に興味深い。

その4

幸福と時間の関係、というのはかなり大きな話になってしまう。正攻法ではうまくいかなさそうなので、搦め手で攻めてみよう。着地に失敗しそうな感じもするが、まあ仕方がない。
最近の若い人は知らないだろうが、1986年にこんなCMがヒットした。

「あれ、似たようなCMを見たことがあるような……?」と思った人もいるかもしれない。このCMは2009年にリメイクされている。新しいほうは、これだ。

旧版と新版の最も大きな違いは、歌詞の「ぽんずしょうゆ」が「うまいしょうゆ」に変わっているということだ。丸大豆しょうゆのCMなのだから「ぽんずしょうゆ」と歌うわけにはいかなかった、と言えばそれまでなのだが、キッコーマンは今でもぽんずしょうゆを販売しているのだから歌詞そのままでぽんずしょうゆのCMを作ればよかったのではないか。ディスカバー・ジャパンがディスカバー・ウエストに縮まって歌詞を変更せざるを得なくなったのとは訳が違う。


私見では、「幸せって 何だっけ 何だっけ〜」に続く歌詞は、やはり旧版の「ぽんずしょうゆのある家(うち)さ」のほうがしっくりくる。ぽんずしょうゆは餃子にでも天ぷらにでも使えるが、真っ先に連想するのは鍋料理だし、鍋料理は円満な家庭の象徴だから「家」に繋がっていくわけだ。これが丸大豆しょうゆだと、そりゃまずいしょうゆがある家よりうまいしょうゆがある家のほうがいいだろうが、なんでそれが「幸せ」に繋がるのかがよくわからない。
だが、そんなことは新版のCM製作者には百も承知だったのだろう。あえて、意味がぼやける歌詞にしたのは、2009年にはもはや円満な家庭に幸せを見出すのが標準ではなく、旧版の歌詞そのままだと逆効果になるという判断があったからではないだろうか。世帯人数別世帯数比率推移のグラフをみると、旧版CMの頃には鍋料理がおいしい3人以上*2の世帯が6割以上だったが、新版CMの時期には1人世帯と2人世帯で過半数を占めている。自ずとCMの作り方も変えざるを得ないだろう。
……と、ここまで書いたところで急に文章を書く意欲が失せた。理由はお察しください。まだ途中だけど、そろそろ日付が変わるので今日はこれでおしまい。

*1:欲求充足説の概略をわかりやすく解説した文章がないかと思って探してみたのだが、こんなのしか見つからなかった。ここで述べられている欲求充足説の説明は全く信用できない。書いた本人が言うのだから間違いない。

*2:というのは独断と偏見です、念のため。