二つの格差と通奏低音のためのトリオソナタ「地方都市」

権利を主張するのは義務を果たしてから? またご冗談を……。 - デマこいてんじゃねえ!を読んで、なるほどなぁと思うとともに若干の違和感を覚えたので、少し書いておこう。

なにもできない赤ん坊だろうと、生きる権利はある。権利には「先天的なもの」とそうでないものがあるのだ。無人島で独り生活する人にも「生存権」はある。他者の存在とは無関係な、絶対的な権利というものがこの世にはある。

それに対して、責任や義務は後天的だ。他者の存在が――すなわち社会がなければ、責任も義務も生じない。

無人島で独り生活する人に生存権があるかどうか、というのはちょっと微妙だと思う。より極端なケースとして、人類最後の一人が、独り生活するというような状況を考えてみると、そこにはもはや生存権はないのではないかと思う。いや、「生存権がない」という言い方は不正確かもしれない。むしろ、こういうべきだろう。人類最後の一人にとって、生存権のあるなしはもはや意味を持たない、と。というのは、そもそも権利というのは他者に対して何かを要求する正当な根拠という側面があり、他者がいなければ成り立たないだろうと考えるからだ。
よく「権利と義務は表裏一体」と言われる。「権利を主張するのは義務を果たしてから」と似ていると思う人がいるかもしれないが、全然違う。よく誤解されるのだが、「権利と義務は表裏一体」というのは、権利概念と義務概念の間の論理的な関係を述べているのであり、たとえば債務関係をとってみれば、「A氏がB氏に対して1000円の債権を有する」ということと「B氏がA氏に対して1000円の債務を有する」ということは表裏一体だ、というごく当たり前のことを表している。債権者がいないのに債務者だけいる、とか、債務者なしに債権者だけいる、ということは論理的に不可能なのだ。権利も義務も他者がなければ始まらない。
では、生存権などのような基本的人権についてはどう考えるのか? 債務関係のように特定の他者が義務を負うというようなわかりすい構造ではないが、やはり生存権と表裏一体となる義務が存在する。法学についての専門的な知識がないので適切な言葉を知らないから、ここでは「生存権擁護義務」と呼んでおくことにしよう。この生存権擁護義務は債務のように特定の誰かに課せられたものではないが、誰にも課せられていないわけでもない。この社会に属するすべての人々に広く課せられている義務だ。ただし、それぞれの生存権の主体である個人との関係によって具体的にどこまでのことが要求されるのかという義務の濃淡の違いはあり得るし、その濃淡の違いは必ずしも明確ではないのでさまざまな紛糾のもとにはなる。けれども、「権利と義務は表裏一体」という根本的な考えに紛れはない。

生得的で先天的な権利を、私たちは持っている。生きる権利、生殖する権利……社会情勢とは無関係な、絶対的な権利だ。それに対して責任や義務は、社会が変わればそれらも変わってしまう。

「仕事の責任」と「子育ての権利」は、どちらが「軽い」のだろう。

どちらを優先する人が、より「軽い価値観を持つ人」だろう。

「権利を主張するのは、果たすべき義務を果たしてから」というセリフは、後天的な権利(ex.債権とか)にしか当てはまらない。生得的な権利と後天的な責務とを比較するのはやめたほうがいい。思慮の浅い人だとバレてしまうから。

ここでは、権利の中に二種類の異なるものがあり、生存権と債権は別のカテゴリーに属していることが述べられている。その点には全く異存がない。ただ、「先天的(生得的)/後天的」という区別はかなりミスリーディングだ。前者は特定の他者に対する権利ではないため他者による個別の承認という手続きが不要だが、後者は特定の他者に対する権利であるため何らかの仕方で他者による個別の承認が行われて初めて成立する、というふうに捉えたい。
また、「生殖する権利」と「子育ての権利」、そして「育児休業*1を取得する権利」の違いについても慎重に検討する価値があると思うし、重さ軽さじゃなくて「主張するかしないか」 - lochtextの日記著作権特許権を例に挙げて論じられている事柄についても考えてみたいのだが、それはまた別の機会に。今日は、別の話題をするつもりで、そのマクラのつもりでこの話題に触れたのだが、少し前振りが長すぎた。
で、本題。

所得格差と地方の人口減少との悪循環は、以前から指摘されている。

地方には仕事がない、人々は仕事を求めて都市部に出ていく。すると地方の人口が減り、ますます仕事がなくなる――。この悪循環の背景には「娯楽格差」が通奏低音のように横たわっていたはずだ。

地方には娯楽がない、人々は刺激を求めて都市部に出ていく、すると消費者が減るため、維持可能な娯楽がますます絞られ、多様性を失っていく。その結果、地方にはますます娯楽が無くなる。どんなに仕事があっても、娯楽の失われた地域に人はいつかない。東北は復興特需に沸いている「はず」だという。では、東京からボランティアに行った若者のうち、一体何人が東北に残っただろう。たとえ必要とされる仕事があっても、「楽しいもの」が無ければ人は去る。文化が砂漠化してしまったら、そこに花は咲かないのだ。

所得格差・娯楽格差・人口減少。

これらは三つどもえの悪循環となって、地方都市を疲弊させている。

現代日本地域間格差について論じた文章はあちこちでよく見かけるが、「娯楽格差」という言葉は初見。面白いと思った。
ただ、娯楽格差は通奏低音ではなく、所得格差と並んで上声部に位置するのではないかという気がする。では通奏低音は何か? 引用文の三つどもえ関係のもう一つの項である人口減少を通奏低音に割り当ててもいいかもしれないが、むしろ人口減少は通奏低音によって規定される和声進行のほうになぞらえたい。
このトリオソナタ通奏低音は……産業構造の変化ではないだろうか。緩-急-緩-急の四楽章構成なら、第一楽章は第二次世界大戦終了後の約10年間、第二楽章は地方の過疎と都市の過密が社会問題となった高度成長期、第三楽章はオイルショックからバブル期くらいまで、そして第四楽章は「失われた○○年」というところか。
……本題のはずなのに、この先が続かない。これにて終了。

*1:育休フィーバーの影で犠牲を強いられる“正直者”たちの鬱屈:日経ビジネスオンラインでは「育児休暇」と書かれているが、そこで言及されている公益財団法人日本生産性本部 - 2011年度 新入社員 秋の意識調査では「育児休業」となっている。どちらにしようか迷ったが、結局、法律上きっちりと制度化されている「育児休業」のほうを採用した。両者の違いについては育児休業と育児休暇の違い [男の子育て] All Aboutを参照。