門松は一里塚

今さら言うまでもないが、一年の始まりとか終わりとかいう区切りは人間が勝手に決めたもので、客観的に実在するようなものではない。また、人間社会の中でも暦法によっても一年の区切りは異なるし、同じ暦法を採用していても、国や地域によって異なることがある。
そうすると、一年が始まった瞬間に「あけましておめでとう」と言うのは、実は新年の訪れを言祝いでいるというよりも、自分が属する地域社会が採用している暦法や標準時へのコミットを改めて表明するという意味合いのほうが強いのかもしれない。
それはともかく、昨年「あけましておめでとう」と言ってから、今年「あけましておめでとう」と言うまでの間におよそ一年の月日が流れているのは間違いない。それは暦法や標準時に関係ない歴然とした事実だ。そして、一年の時間の経過は余命が一年短くなった証でもある。
一休禅師の作とも伝えられる狂歌に「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」というものがある。なんだか前句付っぽい*1ので、一休の真作ではないような気もする。類歌に「門松は冥土の旅の一里塚馬駕籠もなく泊まりやもなし」というのがあるらしいが、こちらのほうが作品としてまとまっているように思える。ともあれ、「門松は冥土の旅の一里塚」とは言い得て妙だと思う。
一休は正月に髑髏を振り回して「ご用心、ご用心」と言いながら街中を歩いたという。それに倣ったわけでもないだろうが、ヨーロッパでも似たようなことをやった人がいる。

これはバッハの「クリスマスオラトリオ」の第1部の一部だが、この映像の最初のところで歌われている歌は、同じバッハの「マタイ受難曲」で繰り返し歌われる受難コラールの歌詞を変えたもの。イエス・キリストの生誕を祝う音楽の中に、その死を暗示する曲を挿入するという不吉なことをやっている。
もっとも、バッハが一休と違うのは、死の後には復活があるというメッセージも盛り込んでいることで、それは「クリスマスオラトリオ」第6部の終曲で明らかとなっている。

この映像の7分4秒あたりから始まるトランペットを伴う華やかな音楽はやはり受難コラールの替え歌だが、その曲調は非常に明るく快活なものとなっていて、かえって居心地の悪さを感じるほどだ。
……と、話が変な方向に脱線したが、ともあれあけましておめでとうございます。今年もぼちぼち忘れた頃にこっそりと日記の更新をしようと思いますのでよろしく!

*1:有名な前句付の題に「切りたくもあり切りたくもなし」というのがあり、室町時代から現代に至るまで多くの作例がある。