死体の利用は殺した行為の容認を含意するのか?

「死体の利用」であれば、その動物に痛み、苦しみ、恐怖を味わわせるといった問題はありませんが、その動物たちは寿命をまっとうしたのではなく、人間によって殺されたことをまず考えるべきです。

死体を解剖するということは、その前段階において、生き物を殺す行為(今回の場合は車で轢き殺す)が必ずや必要になるわけです。よって、「死体なら構わないだろう」と死体の解剖をするなら、生き物を殺す行為をも容認するもの、ということになるのです。

これはなかなか難しい問題を含んでいるように思われる。
たとえば、死刑に処せられた囚人の死体を譲り受けて医学的目的のために解剖を行うならば、その解剖によって死刑制度を容認したことになるのかどうか? 「私は死刑には絶対に反対だ。だが、私には死刑を止める権限もなければ権力もない。私にできることは、ただ医学の発展のために微力を尽くすことのみ」と考える医者は矛盾しているのだろうか? そうではないだろう。いや、もしかしたら死刑廃止論が優勢になったときに、死刑存続派が「死刑には犯罪抑止力や遺族の復讐感情の充足などのほかに、もう一つ大きな意義がある。それは解剖のための死体の供給だ」と言い出す事態が生じたなら、件の医者は死刑反対を表明しつつ死刑存続に加担していることになるかもしれない。だが、今のところ日本では死刑廃止論は劣勢であり、このような想定は空論に過ぎないだろう。
死刑の話はこれくらいにしておいて、車に轢かれて死んだ動物を用いた解剖イベントについて考えてみよう。そのようなイベントを博物館で催すことは、野生動物の轢死に加担することになるのだろうか? 山道を走る車がウサギやタヌキなどを轢いてしまったとき、「あ、しまった! でも、この死体を博物館へ提供すれば、解剖イベントに使えるかもしれない。ああ、いいことをしたなぁ」と考えるドライバーがいるのだろうか? さらに、博物館の解剖イベントが、野生動物の轢死を助長することになるのだろうか?
……うーん、かなり苦しい想定ではないだろうか?
まだもうちょっと書きたいこともあるのだが、そろそろ日付が変わるので、これくらいにしておく。