差別的表現と「差別用語」と当事者と第三者

「言葉狩り」とか言ってる人たちはもう少しまじめに考えてみようね - 想像力はベッドルームと路上から経由ではてブで「池沼」と罵るは削除に値する差別的表現でないというのが株式会社はてなの公式見解 - 漫画(ry跡地差別用語をどこまで拡大解釈するかという話 - 価値のない話を読んでみた。
本題の前に、「差別用語」という語について少しだけ。
「○○用語」というのは、主に○○という分野で用いられる専門用語のことを言う。たとえば「通奏低音」は音楽用語だし、「叙述トリック」はミステリ用語だ。そうすると、差別用語というのは、主に差別分野(?)で用いられる専門用語だということになるのだが、差別*1は特定の分野で見られる現象ではなく、社会のさまざまな場面で生じるものなので、「差別用語」という言い回し自体が変な気がする。単に「差別語」のほうが適切なのではないかと思う。
それはさておき、「池沼」の第一義は池や沼のことであって、専ら差別のために使われる語ではない。単語だけ切り出してみれば、もちろん「差別用語」ではない。しかし、「池」「沼」という漢字本来の意味を抜きにして、単に「ちしょう」という音だけを利用して、「知障」すなわち知的障碍ないし知的障碍者の略語の当て字として使うならば、差別的含みはかなり強くなる。

どうしても限りなくグレーゾーンだとしか思えない。これがはっきり「知的障碍者」と明記してあれば差別案件にはなると思う。だけど、あくまでも「池沼」なのである。「池と沼」なのであると言われればそれまでだ。池と沼に差別要素はない。難しい。

これは話が逆で、「知的障碍者」と明記した場合に比べて「知障」と略したほうが、さらに「知障」よりも「池沼」のほうがより差別的になると考えられる。略語の差別性についてはたとえば「JAPAN」に対する「JAP」、あるいは「朝鮮」に対する「チョン」「セン」などいくつも例がある。おそらく、省略することによってぞんざいになり、語の対象を軽くみることになるからだろう*2。また、同音語による書き換えは、はっきりと書くのが憚られるいかがわしい事柄だという意味合いを付与するので、差別性が強くなると考えられる。
言語表現に込められた差別的な含みをどう読み解き、値踏みするのかは、ときには困難な問題を引き起こすことがある。「池沼」という言葉を使って本当に池や沼について語っているのか、それとも隠語として用いているのかが文脈上明らかではない場合*3はグレーゾーンと言わざるを得ない。とはいえ、明らかに地理とも水循環系とも関係のない文脈で、特定の人物の言動についてのコメントの中で「池沼」が用いられている場合には、そのような困難は生じない。天保山について山か丘かの疑義が生じることを根拠に「富士山も山ではない」と論じるのは失当だろう。
次に、差別的表現に対して社会がどう対応するかについて。
たとえば公衆便所の差別落書きについては「差別の被害を広げないようにさっさと消すべきだ」という考え方と「差別を隠蔽しないように証拠保全して啓発に繋げていくべきだ」という考え方がある。しかし、「差別落書きの問題とは、それによって被害を受ける当事者の問題であるから、第三者が差別落書きを見かけても何もしないほうがいい/何らかの行動を起こしてはならない」というような主張は成り立ちにくいのではないか。
法律の世界には親告罪というものがあり、名誉毀損罪や侮辱罪は原則として被害者かその関係者が告訴しなければ罪に問うことはできない。差別的表現は名誉毀損とも侮辱とも多いに関わりがあるので、どうしても親告罪のアナロジーで考えたくなるところではある。だが、差別問題は単に加害者と被害者の間で完結するものではなく社会全体を巻き込むものなので、第三者が適切な対応を求めて立ち上がったときに「当事者ではないから」というだけの理由で退けるのは適切できないのではないか。
たとえば、全聾の人の後ろから大声で罵倒する人がいたときに、本人はそれを認知していないのだからそこに差別はないと言えるだろうか? また、全盲の人に向かって侮蔑的な身振り手振りをしたり、プラカードを掲げたりするのはどうか? 本人が知らなくても、周囲の人が素直にそれを見聞きすれば、そこでは明らかに差別が生じていると判断するのではないだろうか?
「いや、そうではない。ある言動ないし行為が差別的であるかどうかは、それが向けられた本人がどう認知するかによって決まるのだ」と反論する人もいるかもしれない。だが、その主張が正しいとすれば、全く差別を認知できない程度の知的障碍者に対しては何をしても差別にはならないということが論理的に帰結することになるだろう。これは我々の差別に対する直観的な理解に反する。
直観や常識は常に正しいというわけではない。それらはしばしば他の直観や常識と不整合であったり、矛盾していたりする。しかし、何ごとについても最初は直観的な理解を手がかりについてとして考え始めるほかない。やがて考えを進めるうちに不都合が生じたときに当初の直観を捨てることになるかもしれないが、まずは「差別は当事者の認知によって決まる事柄ではない」という仮定から始めるべきではないだろうか。
そうすると、差別問題について当事者と第三者の間には絶対的な差は存在しないことになるだろう。多くの場合には第三者よりも当事者のほうが差別的表現にまつわる諸事情をよく知っているから第三者の意見よりも優先されるが、それは程度の差に過ぎない。場合によっては当事者が知らない間に差別的表現が垂れ流されていて、第三者が先に気づいて動くこともあり得る。名誉毀損に関する法的取り扱いのアナロジーには無理がある。
従って、次の見解には全く賛成できない。

結局一番現実的なのは「ぼくはこんな汚い言葉を使わないぞ!」って各自が表明することくらいしかない。結局当人同士の気持ちの問題なんだもの。三者がガーガー言えることではない。だから言葉の問題は難しい、簡単に白黒つけられないんだよ。

差別的表現の問題は、当人同士のみの問題でもなければ気持ちの問題でもない*4。差別とは人間関係のネットワークで生じる社会的病理なのだから。
なお、この小文では差別に対して社会はどう立ち向かうべきか、という論点には踏み込むことができない。ただ、件の「池沼」の事例に限っていえば、運営者が削除するのがいちばんではないかと考える。先に挙げた便所の落書きの例では単純削除を否とする考え方があることにも触れたが、はてなブックマークのコメントを削除すればコメント主に対して差別的表現は許さないというメッセージを送ることになり、便所の落書きを消すのとは事情が異なると思われるからである。もちろん「池沼」をNGワードにして機械的に削除するというのは愚策。文脈から差別性を適切に見抜く技術は今のところ人間にしかないと思われるので、スタッフが精進して判断力を磨くしかないだろう。

追記(2014/08/04)

文中で一か所字句のミスがあったので、見え消しで修正しました。
なお、蔑称としての「JAP」は主に人に対して使われるので、本文に書いた「JAPAN」よりも「JAPANESE」の略語と考えるべきだろうと思ったものの、修正しなくても特に読解に支障が出ることはないので放置。

*1:ここでいう「差別」とは社会的差別のことであり、「差別化」「無差別」という語で表されるような意味での差別ではない。当たり前のことだが、いちおう念のため。

*2:逆に、ある表現がより差別的含みの少ない表現に言い換えられるとき、元の語より長くなる傾向がある。たとえば「盲人」が「視覚障害者」になり、さらに「目の不自由な方」になるように。これは言語経済上はあまり好ましいことではないのだが、それはまた別の話。

*3:長文で具体例を挙げるのは難しいが、たとえば公衆便所の落書きで単に「池沼」とだけ書いてその下に魚や白鳥の絵を描いてあったら判断に困るだろう。

*4:ここまでの本文で「心」「気持ち」「意図」「意識」「感情」などといった語を全く使っていないことにお気づきだろうか?