読書に両性の別はあるか?

見出しの「両性」とは男女の性別のことだが、そう書くと「男」が「女」の前に出るし、それを嫌って「女男」と書くのは少しやり過ぎの感がある。いっそ「嬲」はどうか、などとあらぬことすら考えたが、結局は「両性」に落ち着いた。あまり日常的には使わない言葉かもしれないが、日本国憲法第24条で用いられている言葉*1だから悪くはない。なお、ふだんから「男女」という言葉を忌避しているわけでもなければ、言葉狩りなど毛頭考えていませんので、誤解なきよう。
さて、読書と性別ということについて考えてみる気になったのは、次のような文章を目にしたからだ。

この文章は大きく3つの部分から成っている。

  1. 紀伊國屋書店渋谷店が行った、男子書店員が選んだ女性に読んでほしい本の企画への批判
  2. トーハンと出版社12社が行った「文庫女子」フェアへの批判
  3. 前2者に対抗した、女性におすすめする女性主体の本の紹介

1と2はいいとして、書店や出版社の企画への反発がなぜ3という形になってしまうのか、やや疑問があった。というのは、「文庫女子」などの企画の愚劣さは、まず何を置いても読者を性別で分断していることにあると思うからだ。だが、「文庫女子」フェアが色々ひどすぎた - 田舎で底辺暮らしを読み直してみると、そこで批判されているのは、男性が女性読者をバカにしている、ということのようだ*2。なるほど、それなら対抗して女性におすすめする本の紹介をするという流れになるはずだ。
と、理解はしたものの、やはり釈然としないものが残る。それが、今日の見出しに繋がる。果たして、読書において性別というものがなんらかの意味をもつものだろうか?
スポーツ競技においては、女子と男子は歴然と区別されているのが普通だ。その区別にどの程度の合理性があるのか判断することはできないが、生物学的な身体の構造や体力の差などが背景にあるのだろうと想像することはできる。
同じ勝負事でもスポーツを離れると事情は少し違ってくる。たとえば、囲碁にも将棋にも「女流棋士」と呼ばれる人がいるが、将棋の女流棋士棋士ではないのに対し、囲碁女流棋士は単に女性の棋士に過ぎない*3そうだ。囲碁と将棋でなぜ違いがあるのかは知らないが、盤上競技の世界は生物学的な性差が現れるか否かの境界線上に位置しているのかもしれない。
では、読書はといえば、これはもう競技でもなければ勝負事でもなんでもない。性差など何の関係もなく、好きなように本を選んで読めばいいのであって、そこに「自分は女だから……」とか「ここは、男として……」などという意識が入り込む余地がどれほどあるというのか。いや、世の中には男性向けの本や女性向けの本が大量に溢れているではないか、と反論する人もいるかもしれないが、それは出版社や取次、書店などが勝手にレッテルを貼っているだけで、一人の人間として一冊の本に向かうとき、そんなものは雑事に過ぎない。
……と書いてはみたものの、やっぱり女性と男性では読書の傾向に若干の違いはあるのだろうな、と薄々感じてもいる。とはいえ、本は多種多様であり、読者の好みも多種多様だ。個人差が極めて大きい読書という行為において、性差などほんのわずかなものではないか、と考えたくもなるのだ。
以上で述べたことは、あくまでも趣味の読書に関する意見であって、実用書の類を必要に迫られて読むような局面は想定していない。たとえば、ラマーズ法の実践方法について書かれた本を読むとき、男性が読むのと女性が読むのとでは、かなり意味合いが違ったものになるのは確かだが、そういうことは関心の埒外であるので、ご留意いただきたい。

*1:ちなみにさまざまな差別を禁じた憲法第14条では単に「性別」とされている。

*2:もしかしたら、この解釈は少し違っているかもしれない。だが、読者を性別で分断していることに対する批判がほとんどみられないのは事実だ。

*3:というのは、棋士 - Wikipediaの受け売り。