これは凄いよおかしいよ絶対に誰にも真似できないよ

樹海人魚 (ガガガ文庫)

樹海人魚 (ガガガ文庫)

ライトノベル界隈のごく一部では「中村九郎」という名前は既に伝説となっている。前々から気にはなっていて、いつか読もう、そのうち読もう、と思っていたのだが、いろいろあってこれまで一冊も読んでいなかったのだが、昨日とうとう手を出してしまった。
その理由を簡単にまとめると、こうだ。
昨日、外出する際に、鞄に『えむえむっ!2 (MF文庫J)』を入れていた。行き帰りの電車の中で読むためだ。ところが、非常に面白くてすらすらと読み進めたため、行き帰りどころか行きの電車の途中で読み終えてしまった。
ど、どうしよう?
家に帰れば未読本が山のようにあるのだが、今から引き返す余裕はない。幸い乗換駅には小さな書店があるので、そこで何か当座の暇つぶしのための本を買うことにしよう。そういえば、今月創刊したガガガ文庫の『人類は衰退しました (ガガガ文庫)』があちこちで話題になっているから、それにしよう。
そこで、目当ての書店に駆け込むと、即座にライトノベルコーナーに向かった。目指すは新刊の棚。
だがしかし、買おうと思っていた『人類は衰退しました』はなかった。まったく一冊もなかった。そのかわりに、平台には一冊分のスペースが空いていた。売り切れだ。
仕方がない。もともと何が何でも読みたいと思っていたわけではない。他の本にしよう。でも、あまり時間がないからゆっくりと選んでいられない。ガガガ文庫の中から選ぼう。
そこで、ガガガ文庫の創刊ラインナップを見回したときに、ふと目に止まったのが『樹海人魚』だった。
ああ、中村九郎
そういえば、知人の某氏がよく中村九郎の話をしていたことを思い出した。会うたびに「中村九郎は凄い。何書いてるのか全然わからないけど、とにかく凄い。あれ絶対やばいよ、おかしいよ。ねじくれてるよ。あんな文章、絶対に誰も真似できないよ」と大絶讃(?)するのだが、実は某氏のこのコメントは中村九郎の小説についてのものではない。ネット上に掲載されているエッセイについての感想だ。某氏はライトノベルはほとんど読まない人なのだ。
某氏お薦めの中村九郎のエッセイとは、たぶんこれのことだと思う。某氏があまりにも「中村九郎(のエッセイ)を読め! いいから読め!」と言い立てるものだから、先月だったか先々月だったか、勇気を出して読んでみた。
へ、変だ。
どこがどうおかしいのか筋道立てて説明するのは難しい。たとえて言うなら、グレン・グールドのようだ。かのピアノの錬金術師が、本来孤立しているはずの音と音をつなぎ合わせて、にょろにょろと蠢く蛇のように操るのに似ている。もちろん、中村九郎が操るのは音ではなくて言葉だが。なるほど、これは確かに真似ができない。
でも、こんな文体ではたして小説が書けるのだろうか? それは大いに疑問だ。一度、中村九郎の小説を読んで確認してみなければなるまい。いつか読もう、そのうち読もう……(回想終わり)。
ああ、中村九郎
今、この場で、田中ロミオではなく中村九郎の本に出会ってしまったのも、天命というべきか。これはもう買うしかないではないか。
わずかな時間の間に腹をくくった。もはや撤退はできない。ほかに読むべき本は手許に一冊もない。
買った。
開いた。
読み始めた。
変だ。変すぎる。
文体自体はエッセイに比べるとずいぶんおとなしい。少し読みにくいが、誰にも真似ができないほどねじくれているわけではない。しかし、そこには何か確実に変なものが潜んでいる。それは、グールドというよりサルバドール・ダリに似ている。いや、あまり似ていないかもしれない。どっちなんだ?
この小説のあらすじを紹介することにあまり意味はない。よくある異能バトルものだ。設定もキャラクターもさほど目新しいわけではない。しかし、誰にも真似のできない、どこにも類例のない、非常に奇妙な作品になっている。作中の登場人物の誰にも増して作者が異能者であることは明らかだ。読めばわかる。こういう作品はライトノベルレーベルではなくて、海外文学の翻訳に偽装して国書刊行会あたりから出版したほうがいいのではないかとさえ思ってしまった。
ところで、仄聞するところによれば、『樹海人魚』は中村九郎の過去の作品に比べると、ずいぶんとまともになっているらしい。それは大変だ。今のうちに他の三冊も買っておかないと*1

*1:でも、続けて読むのはしんどそうなので、しばらく寝かせておいて休み休み読むことにするつもりだ。