天城一死す

ここ経由でついさっき知った。
1947年に江戸川乱歩の推挙によりデビューしたが、その後、2004年の『天城一の密室犯罪学教程』まで単著がまったくなかった「幻の探偵作家」、幼少期に関東大震災に見舞われ、長じて東京大空襲に襲われ、老いては阪神大震災に遭いつつも生き延びた奇蹟の人も寿命には勝てなかった。享年88。
またひとつの時代が終わった。合掌。

「素朴な疑問」はしばしば曲解される

なんかというと、それは修辞疑問です、とか、ほんとに疑問なの、とか、「留保の無い生の肯定を」、とかいってニヤニヤするREV氏の顔*1が目に浮かぶようだ。
いいから『ムーたち*2を読んでみな、って。

*1:REV氏に実際に会ったことはないので、かわりにダンドリくんの顔を思い浮かべた。なお、ダンドリくんにも会ったことはない。

*2:全2巻。1巻2巻

日本は衰退しました

遠まわりする雛

遠まわりする雛

亡びゆく国の王女。

物語はこの子をどこへ連れて行こうとしているのだろう、最後まで見てみたい、そう思った。

どこへ?
うーん、綾部市だろうか?
知っている人は知っているが、今、日本は死に至る病にかかっていて、限界ぎりぎり崖っぷちの状態にある。綾部市はその限界状況に立ち向かう最前線のまちとして、昨今、各地から注目されている。先月、綾部市でシンポジウムが開かれ、今月末には全国協議会の設立総会が開かれることになっている。
行く末は暗い。たぶん、出口はどこにもない。だが、諦めずに頑張っている人々を嘲笑うことはできないし、目を背けることもできない。最後まで見てみたいとは決して思わないのだが、きっと最後まで見てしまうことだろう。その前に自分の寿命が尽きてしまえばいいのだけれど。
……と、これは現実世界の話で、〈古典部〉シリーズの内容とは直接関係はない。だが、たとえば桜庭一樹地方都市シリーズを読むときに、現実の地方都市の中心市街地の荒廃を無視できないのと同様に、『遠まわりする雛』を読むとき、中山間地域の衰退から目を逸らすことができない。もっともあちこちの感想文を見て回っても、その問題に言及した人はほとんどいなかったので、そんなことを考えてしまうのはむしろ少数派なのかもしれないが。
かつて、日本には社会派推理小説という流派があった。社会問題を積極的に題材に取り上げて、中には現状を鋭く告発するイデオロギッシュな作品もあったらしい*1が、もちろん米澤穂信の作風は社会派ではない。米澤作品に取り込まれた社会問題の要素のみを抽出して論じるのは、作品論・作家論としては大きく的を外したものになるだろう。だが、虚構の世界に心地よく浸ってうっとりとしようとしたときにちくりと読者の意識を刺してまどろみをさます小さなトゲが米澤作品の中には常に仕込まれている、と言うくらいならゆるされるのではないか。
本当は、ここで予告したとおり、もう少し詳細な感想を書くつもりだったが、うかうかしているうちに時機を逸してしまったので、海燕氏の感想文に便乗した次第。

*1:松本清張の作品をいくつか読んだことがある程度なので、あまり詳しいことは知らない。ごめん。