獣の数字

"666"が獣の数字でないことは明らかだ、という主張は、

前提1
"666"は数字ではない。
前提2
数字ではないものは獣の数字ではない。

からの論理的帰結であり、これは妥当な推論である。
しかし、ふたつの前提のうちどちらか、または両方が誤っているかもしれない。
"666"は数字ではなく複数の数字によって構成された数表現である、または、複数の数字によって構成された数表現によって指示された数である。聖書で獣の数字が取りざたされるとき、数そのものについて語られているのか、それとも数を表す記号について語られているのかは聖書学の問題であるが、いずれにせよ"666"が数字ではないことは確かだ。これが前提1の背景にある考え方である。
何ものかが獣の数字であるならば、それは同時に数字であるに違いない。南洋の孤島の浜辺に寝そべる一本足の蛸は、同時に孤島の浜辺に寝そべる一本足の蛸であり、かつ、同時に浜辺に寝そべる一本足の蛸であり、かつ、同時に寝そべる一本足の蛸であり、かつ、同時に一本足の蛸であり、かつ、同時に蛸である。ある言語表現が複数の条件に基づき対象を指定するとき、条件のいくつかを外した言語表現もまた同じ対象に適用される。これが前提2の背景にある考え方である。
ふたつの前提はどちらも「獣の数字」という日本語の言語表現に関するもので、ある程度日本語を習熟した人なら誰もが共有しているはずの言語的直観に基づく考えである。だから聖書学の専門的な研究を参照することなしに、"666"が獣の数字でないことは明らかだと主張することができたのだ。だが、言語にはさまざまな相があり、単一の言語的直観のみをもとにして割り切ることができない場合がしばしば出現する。たとえば、"666"は数でもなく、数表現でもなく、単なる数字の羅列に過ぎず、単複同形の日本語においては「数字」と呼んでも差し支えない、という反論の余地がある。また「獣の数字」は「獣のものであって、かつ、数字でもある」という表現の短縮形ではなく端的に名前である、といえるかもしれない。これらの反論が成立するかどうかの判定には聖書学の専門的知識が必要である。
よって、"666"は獣の数字でないかもしれないが、その事は非専門家にもすぐにわかるほど自明な事柄ではない。