相対化の問題

つまらないメモを書いたら自動的にトラックバックしてしまって、ちょっと申し訳ない気分になってきた。
そこで、東京猫の散歩と昼寝オーストラリアはどこ?について、ちょっとまじめに考えてみることにする。


さて、さっきのクジラとカンガルー。まあ私はどちらも食べろと言われれば食べてもいいし、食べるなと言われれば食べなくてもいい。好感度を気にして「食べませんよ」と答えるかもしれないし。また「人類はそれを食べていいのかいけないのか」という設問も、クジラ・カンガルーともに十分議論に値すると考える。もちろんクジラとカンガルーは同じ生物ではないのだから、線引きできないわけではない。しかし私にとって、「クジラ食/カンガルー食」の線引きは、たとえば「クジラ食カンガルー食/人肉食」の線引きに比べたら、重要度が明らかに異なっている。
ここで問題になるのは、「クジラ食/カンガルー食」の線引きと「クジラ食カンガルー食/人肉食」の線引きの間に見られる重要度の違いは、程度の差に過ぎないのか、それとも何らかの断絶があるのか、ということで、言い換えれば、これら二つの線引きの間に線引きができるのかどうか、ということでもある。
おお、ややこしい。
もうちょっと基礎的なところから考え直そう。
クジラ食*1の是非は、クジラ食を生んだ文化と相対的にしか評価できない。カンガルー食の是非についても同様。さらに、人肉食についても同じことがいえる。従って、これら3つの風習は、みな文化と相対的にしか価値判断ができないという点では同格である……という考えに納得できるだろうか?
たぶん、釈然としない人が多いだろう。
そこで、もう少し考えを進める。
なるほど、風習についての価値判断が文化と相対的にしかできないという点では、みな同格かもしれない。しかし、人肉食を許容するような文化そのものを断罪することができるはずだ……と考えるのはどうか?
この考えが受け入れられるとすれば、クジラ食及びカンガルー食と人肉食の間には歴然とした違いがあるということになるだろう。
また、別の考え方もある。
文化というのは風習の積み重ねである。さまざまな風習の間で生じた軋轢や葛藤を調整しつつ、長年の間に成立した文化にはある程度の合理性がある。従って、文化を物差しにして風習の合理性を判定するのは、思考を省略する手段としては便利である。しかし、それは価値判断は文化と相対的にしかできないということを意味するのではない。むしろ、クジラ食、カンガルー食、人肉食といった互いに異なる文化を背景にもつ風習について比較検討するには、超文化的な視座が必要となる。文化相対主義は、怠惰な思考として乗り越えられなければならない……というのはどうか。
調子に乗って「超文化的」などという、偉そうなわりに意味不明な言葉を使ってしまった。こんな事を不用意に言ったら、直ちに次のような批判が飛んでくることだろう。
個別の文化を離れて、複数の文化を高みから見下ろし、その視座からさまざまな風習について「これはいい、あれはだめ」などというのは、果たして実際に遂行可能なことなのだろうか? 釈迦の掌の上の孫悟空のような目に遭うのがオチではないか。それよりは、ある社会で人肉食がどのようにして生まれ、発展してきたかを詳しく調べて、当該社会の文化のもとで人肉食が本当に容認されるべきものなのかどうかを検討すべきではないか。その際、当該文化に属していない我々の直感はさしあたり括弧に入れておく必要がある……。
これは、風習を文化と相対的に評価しようとする点で、最初に挙げた考え方とよく似ている。しかし、実は全然同じではない。イデオロギーとしての文化相対主義ではなく、方法としての相対化を提唱しているのだから。むしろ、絶対的な相対主義に反対する立場である。
で、結局、最初に掲げた「線引きの間の線引き」問題はどうなったか?
どうもならない。調べてみないとわからない、というのが結論だ。
なんだか腰砕け。

*1:この言葉にはちょっと違和感があるのだが、ここでは引用もとに合わせておくことにする。