向き不向き

「日本語は●●に向いてない」論争というのがあるらしい。
ある言語があるカテゴリーの言語活動に向いているとか向いていないというとき、その向き不向きには少なくとも2つの側面がある。

  1. その言語を用いることで、その活動が円滑に遂行できるかどうか。
  2. その言語を用いることで、よりよい活動ができるかどうか。

「円滑」とか「よい」とかの判断基準はそれぞれの言語活動に応じて異なるので、もちろん一概にはいえない。ときには円滑であることとよいこととが一致することもあるだろうが、常にそうであるとは限らない。私見では、科学や実務に関する言語活動では2つの基準が比較的一致するが、芸術や娯楽の分野では乖離することが多い。
たとえば、「ドイツ語よりイタリア語のほうが円滑にオペラを演じることができる」と「ドイツ語よりイタリア語のほうがよりよくオペラを演じることができる」は意味にずれがある。従って、前者の意味では「ドイツ語はオペラに向いてない」が真であり、後者の意味では偽である、ということもあり得るだろう。*1
ここまで書いてみて、この話題は言語論よりは芸術論に属するものだということがわかってきた。たとえば言語の向き不向きのかわりに楽器の向き不向きについても同様の議論を展開することができる。
聴いたことがない人にはわからない話なので申し訳ないけれど、バッハに「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」と「無伴奏チェロ組曲」という曲がある。ヴァイオリンもチェロも単独で音楽を奏でるのには向いていないので、和音を響かせるにしても、複数の声部を絡ませるにしても、どうしてもぎくしゃくした演奏になってしまうのだが、それにもかかわらず*2これらの音楽は名曲となっている。これらの音楽をピアノやオーケストラに編曲したものを聴くと、なるほど演奏は滑らかで耳に引っかかるところはないが、原曲を聴いたときほどの感銘は受けない。どこにでもあるピアノ曲、オーケストラ曲と変わりがないように感じてしまうからだ。その意味では、ヴァイオリンやチェロのほうが向いているということになるだろう。

*1:ただし、現にそうであるかどうかはわからない。

*2:むしろ「それゆえに」と言うべきかもしれない。