禁○ファシズム

警告

食事中の人は注意!

本文

「それは常識だ」とか「そんなことは当たり前だ」という言葉は思考停止のあらわれであり、ファシズムを助長する危険な態度を示している。少し見方を変えてみれば、そのことがよくわかる。
たとえば、日本では公共の場での排泄が禁止されている。具体的にどのような法令や罰則があるのかは知らないが、飲食店のテーブルの上に排便したり、病院の待合室で放尿したりすれば、警察沙汰になることは間違いない。
それは常識だ。そんなことは当たり前だ。
だが、ちょっと考えてみてほしい。人間という生物は排泄をしないと生きていけない。大便にしても小便にしても溜まったら出るのが自然の摂理だ。それなのに、どうして特定の場所でしか排泄行為をしてはいけないという規範があるのだろう。ここにファシズムの臭いが感じられないだろうか?
考えの足りない人はこう言うかもしれない。「そりゃ、人前で排泄したら、他人が不快に感じるからだ」と。しかし、これは答えになっていない。なぜなら排泄物に不快感を抱くという反応じたいが文化的に形成されたものであり、今ここで疑問を投げかけている当の問題領域の一部なのだから。
また、「排泄物を放置すると病気の原因になるからいけないのだ」と主張する人もいる。だが、本当にそうなのだろうか? 公共の場で排泄することがそんなに危険なのなら、野良犬がウンチした公園で遊ぶ子供たちはみな病気にかかっていることだろう。ここには問題の誇張があるように思われる。
もちろん、排泄物が伝染病を媒介することは決してない、と主張しているわけではない。確かに、不衛生な環境で生活している人の排泄物には有害な病原菌が含まれていることもあり得るだろう。だが、強いて排泄物に触れたり口に含んだりしない限り、それが病気の主原因になるとは考えにくい。むしろ、尿意や便意を感じているのに我慢することで尿道炎や便秘になるリスクのほうが大きいのではないか。
そのほかの「公共の場で排泄を行ってはいけない理由」なるものをいちいち検討する余裕はないが、どれもこれも根拠の薄弱さという点では似たり寄ったりだ。結局、特定の場所での排泄を強制することのメリットは、便器製造業者にしかないことがわかる。つまり、我々は、一部メーカーの巧妙な社会的キャンペーンに踊らされているのである。このような事態が好ましくないことは言うまでもない。これは、禁便ファシズムだ。
幸い、今のところは排泄が完全に禁止されているわけではない。排泄できる場所が限られた「分便」に過ぎない。だからといって安心はできない。ファシズムは足音を立てずに忍び寄るのが常だ。今は「分便」でも、いずれは「節便」になるだろう。そして、知らず知らずのうちに人々は「禁便」へと誘導されていくのだ。
ある日、突然、排泄が完全に禁止されるかもしれない。あなたはもう、いつ何時たりとも排泄を行うことができない。漏れそうになっても、悶絶しても耐えなければならない。耐えきれなくなったら、「しかるべき医学的処置」により、永久に排泄できない身体に改造されるしか、社会的制裁を免れる手段はないのだ。なんと恐ろしい事態だろう!
そうなってからでは遅い。我々は今、勇気を出して声を上げなければならない。
自然に還れ!
人間はいつでもどこでも好きなときに好きなだけ排泄行為を営むことができるべきだ!
すべての抑圧に「No」を突き付けろ!
すべての人が自由であるために。

後記

ああ、すぐに古びてしまいそうなネタだ……。