山羊の影 −幻視風景としての『少女には向かない職業』−

少女には向かない職業 (ミステリ・フロンティア)

少女には向かない職業 (ミステリ・フロンティア)

この文章は、下記の文章の続きです。

引き潮の魔女

少女には向かない職業』には、一見して奇妙に思われる情景が描かれている。


県道の横に広がる、海。暗いさんご礁の上を白い山羊が一匹、さまよっている。「山羊汁にしちゃうぞ!」などと一人でつぶやきながら、飛ばす飛ばす。*1

あたしは自転車を止めて、県道から外れて少し降りたところにあるごつごつのさんご礁のほうに歩いていった。朝もいた迷い山羊が、のんびりと、夏の日射しを浴びて目を細めていた。*2
このあと主人公の大西葵は腹立ち紛れに山羊を虐待する。そこに現れるのが、宮乃下静香だ。

宮乃下静香は、贖罪の山羊を救出する聖者みたいな静かな様子で、立っていた。夏の空がさんさんと後光をつくっていた。あたしがあわてて涙を拭き、いつのまにこいつが現れたんだろうときょろきょろしていると、彼女はもう一回、
「それぐらいにしておいてやりなよ。まぁ、今日のところは」
と言った。 *3
そして静香は葵の関心を山羊から別のものに向ける。すなわち、人間の死体へと。

とりちがえた問題

読者の関心も同じように死体に向かうためか、ネット上の感想文や感想文でこの山羊に着目したものはない。*4非常に印象深い情景なのに、誰も言及していないのは不思議だ。
と、書くと「そういうお前も言及していないじゃないか」とツッコミを入れられてしまうかもしれない。
確かにその通りだが、ちょっと言い訳しておこう。

  1. 上の引用箇所からもわかるように、山羊は文字通りの「スケープゴート」(参考)として意味づけられており、その点では特に疑義を生じるものではない。
  2. 迷い山羊が地方都市の生活圏に現れるのは変だといえば変だが、この小説の舞台はとことん架空の島なので、ことさら取り立てることもない。

だが、舞台がとことん架空の島だというのは調査不足による誤認だとわかった。『少女には向かない職業』の舞台はとことん架空の島なのではなくて実在する島によく似た架空の島だったのだ。
では、この山羊はいったい何者なのだろうか?

恐怖は同じ

オバケヤシキ―異形コレクション〈33〉 (光文社文庫)』所収の短篇「暴君」に附された紹介文に次のような一節がある。


なお、『砂糖菓子……』が超自然的な設定を伴った作品であったことは広く識られていない。ほんの数行書かれていただけの、霧のような〈存在〉。著者によれば、それは絶望した少年にのみ取り憑く不思議な精霊。同じように絶望する少女の目のみに視える、美しくも無力な〈存在〉だという。*5
ここで言及されているのは『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない (富士見ミステリー文庫)』の終盤、190ページ9行目以降の数行のことだと思う。確かに、そうと言われてみればやや不自然な描写ではあるのだが、予備知識がなければここに超自然的な〈存在〉を読み取るのは難しいだろう。
ともあれ、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』に超自然的な設定が伴うのだとすれば、『少女には向かない職業』に超自然的な存在者が登場しても不思議はない。件の山羊はたまたまどこかの牧場からさまよい出たものではなくて、絶望した少女にしかみえない超自然的な山羊だったのだ!
事件そのものは徹頭徹尾自然科学の支配する世界内で推移するが、その背後には隠された世界があり、少女たちは件の山羊を通じてその「もうひとつの世界」に知らず知らずのうちに影響を受けている。隠された世界のメカニズムは不明であり、そこに悪意ある存在者がるのかどうかすら定かではないが、少なくとも表面的な事実以外の何かが確かに存在しているのだ……。

読者よ欺かるるなかれ

だが、この山羊が絶望した少女にしかみえないのだとすれば、そもそもそんな山羊は最初から存在しなかったのではないかとも考えられる。自然的存在者にせよ超自然的存在者にせよ、大西葵がスケープゴートを求めたときに都合よくその場にいて彼女の虐待を甘んじて受け入れる、というのはいかにもおかしな話だ。それよりも、すべてが彼女の幻視風景だったと考えるほうが理にかなう。
ただし、この解釈は新たな疑問を呼び起こす。もう一人の少女、宮乃下静香には山羊はみえていたのか? それとも大西葵に話を合わせただけなのか?

この眼で見たんだ


あたしがおたおたしていると、宮乃下静香は無感動な顔で、
「どうせ山羊汁になるから」
「そ、そうだね」
「そしたら飲み干してやりなよ」
「そうだね。え? なんの話?」
先にさんご礁の上をすたすたと歩き出していた彼女は、振り向くと、相変わらず無感動な、なんだか面倒くさそうな顔をして、
「なにって」
とつぶやいた。
「なにって、あなたの憎しみの話でしょ?」*6
大西葵の心理をすべて見通しているかのような宮乃下静香の言葉。それに気をとられてしまい、その直前の台詞を見落としてはいないだろうか? 大西葵が一人でつぶやいた――従って、誰も聞いてはいなかったはずの――戯言を受けて、「山羊汁」と言っているのだ。
贖罪の山羊ならぬ食材の山羊。
これは偶然なのか、それとも宮乃下静香は大西葵の独り言を聞いていたのか。あるいは、この会話全体が大西葵の歪んだ認識によって改変されてしまっているのだろうか? 疑問が疑問を呼ぶ。*7
しかし、これらの疑問に対して唯一無二の説得的な解釈を示すことが、この小文の目的ではない。*8風呂敷を広げるだけ広げて畳まないのは卑怯だと誹られるかもしれないが、メタ解釈を一つ提示することでご容赦願いたい。

火よ燃えろ!

つまり、そういうことなのだと思う。*9

好事家のためのノート

言うまでもないことですが、ここで述べたのは『少女には向かない職業』のひとつの読み方――しかも相当偏った読み方――に過ぎません。より正統的な『少女には向かない職業』論を読みたい方には、後天性無気力症候群 - 用意するものは人身御供論と実弾です、とうんちく好きは言ったをお薦めしておきましょう。
また、本文では言及できませんでしたが、この文章を書くきっかけとなった(゜(○○)゜) プヒプヒ日記 - 神西清効果も紹介しておきましょう。小説全体のストーリーとは直接関係のなさそうな謎めいた記述が『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』ばかりではなく、短篇「辻斬りのように」*10にもあることを知り、「じゃあ、『少女には向かない職業』にも」と思ったのが、本稿執筆のきっかけです。
ああでもない、ここでもないと考えあぐねているうちに、また一つ凄い桜庭一樹論が出てきました。桜庭一樹「女の子×女の子」です。これもお薦めです。
さて、早く『ブルースカイ (ハヤカワ文庫 JA)』を読まないと……。
:どうでもいい追記:小見出しで「引き潮の魔女」がだぶっているというミスをやらかしたので、一方を「この眼で見たんだ」に変更しました。

*1:少女には向かない職業』26ページ。

*2:同書33ページ。

*3:同書35ページ。

*4:とはいえ、『少女には向かない職業』に言及した記事すべてに目を通しているわけではないので、単に見落としているだけかもしれない。ご存じの方はご教示いただきたい。

*5:井上雅彦編『異形コレクション オバケヤシキ』312ページ。

*6:少女には向かない職業』33ページ〜34ページ。

*7:話の流れの都合上、宮乃下静香が山羊汁に言及している不思議をここで初めて取り上げたが、もちろん山羊が超自然的存在者として存在するという説をとった場合でも、同じ疑問を提示することができる。

*8:むしろ、それぞれの解釈に応じてこの作品で語られる出来事の意味合いがどのように変わるのかを示すのが目的……だったのだが、智力と体力と時間の限界により、逐一小説全体を再解釈することができなかった。

*9:未読の人には申し訳ないが、これ以上詳しい説明はできない。

*10:作者の日記によれば、この作品は実は長篇小説のプロローグにあたるのだとか。