屁理屈と理系研究者

悲喜劇名詞|くだらないこと。ただし個人的には素晴らしい発見。を読んで思ったことを書こうと思う。
だが、その前にまず大野伴睦について少し。この名前を見聞きするだけで微苦笑する人は多いと思われるが、全く何も感じない人もいる。信じがたいことだが、「大野伴睦」をなんと読むのか知らない人すらこの世には存在するのだ!

いかにも良妻賢母という感じの夫人を従え、左腕をぐっと前に尽きだして遠くを見据えた彼の銅像を見るだけで、何というか、その、まあ、滑稽とは真面目さを突き詰めたところにあるのだなぁ、というような感慨を抱いてしまうのだが、それはともかく今日の本題は大野伴睦とは何の関係もないのでここまでの話は忘れていただきたい。


相手がこのような対応をする理由の一つには、仕事が細かに議論を論じていられるほどに悠長なものではないということがあるように思う。確かに仕事はたくさんあるし、下手な会話に時間を費やしてしまうとすぐさま日が暮れてしまう。ちなみに研究者の生活というのは議論をするものであるため、すぐ日が暮れる。
 だが、そういう点を加味してみても、これはやはり個人の性格によるところの方が強いように感じる。僕のようにすぐさまこのようなことをいろいろ考えたりする人間にとっては驚くべきことなのだが、世の中には理屈や理論というものを聞いたり考えたりすることを嫌がる人間というのは、実はとても多い。
 理論を考えることができなければ無能と見なされる理系研究者と彼らとは、非常に対照的な存在であるといえよう。方向性と許容できるものがまったく異なる両者がそのまま交流すると、発生するのは、喧嘩か、いざこざか、まあもしくは説教である。
個人差を強調しておきながら、「理系研究者」というカテゴリーに回収してしまうというのは、いったいどういうことなのだろう? 不思議だ。
言いたいことはそれだけ。