浅葱色って何色だろう?

荒野の恋 第二部 bump of love (ファミ通文庫)

荒野の恋 第二部 bump of love (ファミ通文庫)

どうでもいいことに気づいた。
荒野の恋』の第一部と第二部、それぞれの一章の章題を見比べてみよう。

  • "ハングリー・アート"の子供
  • 恋は女をこどもに、男を地下組織にする

特殊な感性の持ち主なら、これだけで何のことを言っているのかわかったことだろうと思うが、別にわかったから偉いというわけではないし、わからなくても何も問題はない。もったいぶっても仕方がないので書いておこう。第一部では漢字で「子供」と書かれているのに、第二部ではひらがなの「こども」になっているのだ。
章題だけのことなら、「親」の対義語を漢字で表し、「大人」の対義語をひらがなで表しているという解釈もとれる。また、特に使い分けをしているのではなくて、文字の並び具合の印象により、たまたまそうなっているだけなのだとも考えられる。
しかし、地の文に着目すれば、どちらの考えも誤りであることは容易にわかる。第一部では一貫して「子供」と表記されており、第二部では一貫して「こども」と表記されている*1のだ。
つまり、第一部と第二部の間で、桜庭一樹の文体に変化が生じたと考えられる。
「で、それがどうした?」と訊かれると、返答に困る。「子ども」表記が混じっていたら、一席ぶつこともできるのだけど。
「もしかしたら、これから桜庭一樹論を書く人の参考になるかもしれない」と答えておくことにしよう。興味のある人は、桜庭一樹の他の作品で「子供/こども」がどう表記されているのか調べてみるといい……かもしれない。
さて。
もう一つ瑣末な話。
ファミ通文庫 WEB SITEには『荒野の恋』の文章の一部が掲載されている。

本を買おうかどうしようか迷っている人のために文章の雰囲気をつかんでもらうために掲載しているのだろう。どんな小説でも効果があがるというわけではないが、『荒野の恋』のようにきめ細やかで繊細な文章の魅力で読ませる小説の場合には、粗筋や登場人物紹介よりも小説の文章そのものを紹介するほうがずっと効果的だと思う。
でも「桜庭一樹」という名前だけでレッサーパンダの写真集でも買うような読者には別にそんなものは必要ない。だから、この立ち読みページも全然チェックしていなかったのだが……。
先日、会社の同僚に「あさぎいろ、ってどんな色ですか?」と訊かれた。「ええと、確か青系統の色で、浅いネギの色というくらいだからちょっと緑がかっているんじゃなかったかと」とあやふやな答えを返したのだが、気になって調べてみると意外なことが判明した。「あさぎいろ」には「浅葱色」と「浅黄色」があり、今では混用されているものの、字面の上では別の色を指すらしい。

で、この調べ物の最中にたまたま行き当たったのが、<第一部立ち読み>ページだった。山野内荒野の制服のタイの色が「浅葱色」で「浅黄色」だったのだ。
刊行されている『荒野の恋〈第1部〉catch the tail (ファミ通文庫)』では、色名は「浅葱色」で統一されている。カバー絵でも青系統の色が用いられているし、学年を表す色として山吹色や臙脂と対照をなすものだから、黄系統の「浅黄色」とは考えにくい。よって、立ち読みページの記述は単純な誤記に違いない。では、なんでそんな間違いが生じたのだろう?
考えられる可能性はふたつ。

  1. もとの原稿では「浅葱色」で統一されていたが、ウェブ担当者が入力する際に誤変換した。
  2. もとの原稿で「浅葱色」と「浅黄色」が混在していて、ウェブには原稿データをHTMLに加工したものがそのまま掲載されている。他方、本のほうはその後の校正で「浅葱色」に統一された。

色名の不統一という点に限れば、どちらであっても大した違いはない。ただ、もし後者だとすれば、ふつう一般読者が知ることのできない、小説の推敲過程の一端に触れることがてきることになる。これもどうでもいいといえばどうでもいいことだが、瑣末主義者にとっては、どうでもいい細部に心惹かれる。
そこで、ウェブに掲載された文章と、それに対応する本のページとを読み比べてみることにした。
その結果はあえて書くまでもないだろう。手許に『荒野の恋』があれば、誰だった読み比べることができるのだから。
さてさて。
言葉尻に関する瑣末なエピソードはともかく、肝腎の小説のなかみはどうだったのか、というと。
第二部には、第一部には登場していない*2阿木慶太という少年が登場する。新キャラだ。でも、初登場のシーンで直感的に「ああ、これは噛ませ犬キャラだな」と思った。きっと第三部には彼の出番はないだろう。可哀想に。
ストーリーじたいは淡々としていて、実の父親に解体されることもなければ、義理の父親に襲われることもなく、ただ山野内荒野の日常が描かれているに過ぎない。しかし、その日常の一齣一齣がかけがえのない大切なものとして描かれていて、噛めば噛むほど味の出るスルメ*3のような魅力を持っている。
もしかすると、こういう作品のことを「文学的」と評するのかもしれないが、だからといって娯楽小説としてつまらないとか堅苦しいとか、そういったことは全くない。
ちょっと突拍子もない連想だが、登場人物の会話シーンで国枝史郎を思い出した。同じ言葉を重ねて言ったり、ちょっと古めかしい言い回しを使ってみたりするところが演劇的で、国枝史郎に似ていると思ったのかもしれない*4
……なんか、変なことばかり書いてしまった。

*1:第二部は注意しながら読んだのでたぶん見落としはないと思うが、第一部は今ざっと読み返してみただけなので、もしかしたら例外があるかもしれない。

*2:と思うが、見落としているかもしれない。

*3:ここでスルメを持ち出すのはどう考えても変なのだが、語彙が貧困なせいでほかのたとえが思いつかない。

*4:だが、国枝史郎の小説を最後に読んだのは8年ほど前のことなので、ただの勘違いの公算が大きい。