名無しと必然性

現段階での日日日の最高傑作だと思う。非常に面白かった。シリーズ前作までに登場したキャラクターが予想もつかなかった変貌を遂げるところが特に面白かった。
たとえば第1作では名前すらなかったヘビが今作で人間の名を与えられる。その名前というのが貴御門御貴というかなりアレなものだが、人間もヘビも名前で価値が決まるのではない。御貴は名前に似合わず意外な活躍を見せる。そう、まるで『ナニワ金融道』の肉欲棒太郎のように。
……とズレた喩えを挙げたところで、話題を変える。

私は必然性と言うものに多少拘るところがあります。例えばキャラにケモノミミが付いていると「なぜケモノミミなのだろう」と疑問に思ってしまいます。ネコも杓子もケモノミミなのは許せません。いやネコは当然ネコミミでしょうけれど(汗)杓子がケモノミミであるにはそれ相応の理由が欲しいのです。無条件にケモノミミにすれば良いという訳ではないでしょう。ヴィクトリカスーパードルフィーにとってネコミミなど蛇足に過ぎません。ファンタジアバトルロイヤル編集部はそれが分からんのです(意味不明)。
今、引用した箇所に続いて『蟲と眼球とチョコレートパフェ』の耳の話になる。この記事がアップされたときにはまだ『蟲と眼球とチョコレートパフェ』を読んでいなかったので、先を読むのは控えておいた。
で、「『蟲と眼球とチョコレートパフェ』には必然性のあるケモノ耳が出てくるらしい」という固定観念を抱いたままこの作品に取りかかったのだが、どこまで読んでも必然性が見えてこない。というか、ケモノ耳キャラすら出てこない。よく読めば、冒頭の13ページで耳つきの帽子の描写があるのだが見落としていた。結局、首を傾げつつ『蟲と眼球とチョコレートパフェ』を読み終えた。
そして、再度ぎをらむ氏の感想文にアクセスして、「あっ、なるほど」と思った。これは気がつかなかった。でも、これ、必然性があるというほどのもんじゃないよなぁ。
で、あらためてぎをらむ氏の感想文を読み返してみると、

無論、この作品にも必然性……というか整合性に欠ける点はいくらでもあります。たとえば206ページで両腕を失っている相沢梅がトイレに掛け込んだあと一体どうしたんだろうとか思ったりもしたのですが、まーいーじゃないですか、そんな野暮なことを言うもんじゃありんせん。
という箇所が目にとまった。
「まーいーじゃないですか」→「まーいーじゃ」→「まいじゃー」→「まいじゃー推進委員会!」……ではなくて、その後の「ありんせん」がミソだ。
そう、ぎをらむ氏は『蟲と眼球とチョコレートパフェ』の感想文の中に別の作家のケモノ耳小説への批評を密かに埋め込んでいたのだ。この「ありんせん」はそのケモノ耳キャラの台詞を真似たものに違いない!*1
脱線してしまった。本題に戻ろう。
といっても『蟲と眼球とチョコレートパフェ』については既にあちこちで高く評価されているので、あまり付け加えることもない。今ぱらぱらと読み返してみて、貴御門御貴の名前が二重括弧で括られている場面とそうでない場面の違いについての法則を発見したが、別に叙述トリックを仕掛けているわけでもない*2ので、取り立てて論じることもないだろう。
日日日は一作ごとにどんどん成長している。にもかかわらず、いつまで経ってもぎこちなさが抜けず、ぎくしゃくした印象を受けることが多い。不思議な作家だ。デビュー当時は乙一と比較されたこともあったが、このまま成長を続けてもたぶん乙一の境地に達することはないだろうし、またその必要もないだろう。
さて、これから日日日はどうなっていくのだろうか。次作が楽しみだ。

*1:と断言はしたものの特に根拠のない思いつきなのであまり本気にしないように。

*2:いや、あとがきを読むと何か仕掛けていそうな雰囲気ではあるのだが……。