誤読する読み手と誤読される書き手、どっちが悪い?

書き手のほうが全面的に悪い、という主張。ただし、書かないことも選択できたという自由がある場合を前提とした発言なので、その点には注意が必要だろう。
もう一つ、留意が必要なのは、ここでは誤読の原因(「こんな誤読が生じてしまうなんて、いったい何が悪かったのだろう?」)のレベルの話をしているのではないということ。誤読の結果、トラブルが生じた場合の責任が読み手と書き手のどちらにあるのか、という点に絞っている。それはそれで簡明なのだが、「誤読をなるべく少なくしたいが、何に気をつけたらいいのか?」という関心を持っている人向きではない。ここから得られるのは「誤読は避けられない。嫌なら書くな」という処世訓だが、それは上記の関心をもつ人にとっての助けとはならない。
この問題はもう少し考えてみようと思う。

追記


書かれた文章をどう読もうがそんなものは100%読む側の自由だ。ひらがなを飛ばそうが漢字を飛ばそうが問題ない。いくら誤解されないように丁寧にていねいに言葉を選んで書いたとしても、読み手に最初から最後まで読み通す義務すら課せはしない。飛ばし読み拾い読み斜め読み意味を取り違えされて誤解されてもそれは書き手の責任なのだ。だってそうだろう。「あなたの書いたエントリを1文字置きに読んだらバモイドオキ神からのメッセージが浮かび上がってきたので、通りに出て人を殺しました」と言われたら、笑っていられるだろうか? 面白がっていられるだろうか? 少しも全く「書かなければよかった」と思わないことはありえないのではないか? だが、そういうことが起きる可能性はあるのだ。ゼロではないのだ。
ポイントとなる部分を強調してみた。この主張に対して「だってそうだろう」以下が理由の説明となる……のだと思うが、よくわからない。なるほど「書かなければよかった」と後悔するような事態が出来することはあり得るだろう。だが、後悔は後悔、責任は責任。書き手が自責の念の囚われるということと、書き手が責任を負うべきであるということは別の話なので、少々議論が飛躍しているように思われる。
あるいは、書き手が後悔することがあり得るということは、書き手に責任があることの一つの傍証であって、主な論拠は主張以前に出ているのかもしれない。たとえば、次のような論証が隠されているとか。

  1. 読み手が誤読をすることは止められない。これは自然の摂理のようなもので、書けば必ず誤読が発生する。
  2. そのような土壌のもとで何かを書くということは、誤読を自ら進んで引き起こしていることになる。つまり、書くことは誤読の直接の原因である。
  3. よって、書き手は自らの行為の結果である誤読に対して責任を負う。

もし、このような筋道があるのだとすれば、


もう一つ、留意が必要なのは、ここでは誤読の原因(「こんな誤読が生じてしまうなんて、いったい何が悪かったのだろう?」)のレベルの話をしているのではないということ。誤読の結果、トラブルが生じた場合の責任が読み手と書き手のどちらにあるのか、という点に絞っている。
というコメントは的を外していたことになるだろう。責任論の背後に因果関係に基づく論証が隠されていたのを見落としていたということだから。とはいえ、今提示した読みのほうが正しいという保証もないので、この件については保留ということにしておきたい。