流れ去るもの、留めるもの

記譜法が発明され、ついで――といってもその間に少なくとも1000年以上が経過しているが――録音技術が開発されたため、今では音楽とは本質的に流れ去るものだという認識はかなり薄れてしまっている。だが、完全に忘れ去られたわけではない。
他方、音楽が留めるものだということはほぼ忘れ去られているといっていいだろう。何を留めるのか? 記憶だ。文字がなかった頃、あってもそれを書き記す紙が普及していなかった頃、音楽は記憶術の一種でもあったのだ。
記憶術としての音楽は中世以降ほとんど顧みられることはないが、稀な例外もある。文字によって書き残すことを許されない言葉が綿々と歌い継がれた歴史が、つい最近まで続いていた。もしかしたら今でも続いているのかもしれない。それは、隠れキリシタンの祈り歌である。遙か三百余年の時を超えて歌い継がれたラテン語の聖歌は、その間に大きく変容はしたけれど、それでも元の歌の名残を留めており、特定が可能だ。中には、欧州では既に廃絶した曲もあるという。
さて、音楽が記憶術であった昔と現代とでは、音楽に対する関わり方はどう違っているのか……と問いを提起したところで時間切れ。続きを書く予定は今のところない。*1

*1:そもそもこの文章を書く予定すらなかった。『銀の犬』の感想文を書きかけて、ちょっと脱線してしまった。