軽い機敏な子猫何匹殺すか

朝の文章の続き。
朝起きたばかりで思考力が十分に働いていなかった*1のと、時間に余裕がなかったのとで、関連記事をあまり読まずに思いつきを書いたのだが、「なんだか作り話っぽい」という第一印象は今でも変わらない。
あちこちの記事を読むと、同じような印象を持っている人がほかにもいることがわかった。


[事件][?][悲惨]作家は嘘が商売なのでこの文章も疑ったほうがいい。作家はちょっと変な人が多いので事実だとしても驚かないが。
とはいえ、多くの人はこの話を額面通りに受け取っているようだ。少なくとも疑っているそぶりは見せていない。もしかすると、事の真偽は大きな論点にはならないと思って煩雑さを避けるためにあえて割愛しているのかもしれないけれど。確かに、倫理または道徳*2について考察するための一つの事例として取り扱うなら、これが実話かどうかという問いにはさして意味のあることではない。しかし、坂東眞砂子を道徳的に非難するというのなら、これが実話かどうかは大きなポイントの一つになると思われる。
と書いてはみたが、少し先走ってしまったようにも思うので、もうちょっと詰めておこう。
まず、非難の対象とされる坂東眞砂子の行為が二種類あることは押さえておかなければなないだろう。

  1. 飼い猫が生んだ子猫を殺したという行為
  2. その話を日経新聞という公共の場で語ったという行為

先に疑問を投げかけたのは1の真偽についてだったのだが、仮にこの話が作り話だったとしても「それを実話として語った」という行為の是非には影響を与えるものではない。
では、2は果たして事実なのだろうか?
「事実かどうかは8月18日の日経新聞を見れば一目瞭然じゃないか」などと言う素朴な人は、愛・蔵太の少し調べて書く日記でも読んで勉強し直してもらいたい。こことかここで引用されている文章が果たして坂東眞砂子が書いたものと同じかどうかということには当然疑いを挟む余地がある。一字一句のレベルの話ではない。紙面の都合で一段落丸ごと削除されて筆者の意図とはまるで異なる趣旨の記事になってしまった、という状況も想像できるのだ。
だが、疑い始めるときりがない。当該記事が捏造または改竄されていると推定できる十分な根拠がない限りは、少なくとも文意を損ねるほど元の原稿に手を加えていると考えるべき必要はない、という考え方も可能だろう。この考え方の是非はさておき、あまりこの論点に固執する気はないので、便宜上、2については問題がないものとみなして話を続けることにしよう。
坂東眞砂子は自らの子猫殺しについて日経紙上で告白した。その告白の内容の真偽はともあれ*3、少なくともそれを事実として語っているのは確かだ。そして、告白の内容は現在日本の社会通念上まことにけしからぬものである。ここまでを認めるとして、さて、これが道徳的非難に値する行為かどうか。
この問題について決定的な結論を提示することはできないが、とりあえず坂東眞砂子が小説家であるということに注意を喚起しておこう。


小説家が職業的な釣り師だということ。
小説家は言葉でもって読者に対峙する。読者がべったりと生きる生活空間とは異なる価値観を突き付け、衝撃を与える。小説家はしばしば反社会的な言辞を弄する。それをどこまで許容するべきなのか。
風俗を紊乱するような表現には制約が加えられるべきだ、という考え方がある。たとえばある種の猥褻表現など。しかし、猥褻表現を取り締まることの是非はここでは問題にしない。少なくとも子猫殺しは猥褻ではない。
他人のプライヴァシーを侵害する表現は封じられるべきだ、という考え方もある。実際、それで裁判になった例もいくつかある。しかし、プライヴァシーの問題はここでは扱わない。少なくとも子猫殺しは覗き見趣味ではない。
とにかく読者にとって不快な表現は全部ダメだ、という考え方もある。これの考え方には反対だ。個別具体的な事例において、不快な表現であることを理由に非難されるべきことがあり得るとしても、それを一般化して不快な表現すべてを包括的に非難すべきもののカテゴリーに入れ、それに該当するからといって個別に検討せずに断罪するのは知的怠慢以外の何ものでもない。
また別の考え方もある。小説家が小説という形式でもって何かを表現する際には、その自由は最大限保証されるべきだが、コラムやエッセイなどの場合はその限りではない、という考え方だ。この考え方はかなり穏健なものに思われる。小説とそれ以外の線引き問題さえ生じなければ。ただ、件の子猫殺しの記事は、それが小説として語られたのではないという事情を考慮に入れても、著しく不快で社会に害をもたらすほどのものとは思えない。
長々と書いてはきたが、結局最後の一文が言いたかっただけだ。どうもすみません。
反省したところで話を続ける。
非難の対象とされている行為のうち、2については非難に値するほどのものではないんじゃないか、というのが今のところの暫定的な見解だ。実際、他の人々のコメントを見ても、2を主題的に論じている人はいない。やはり重要なのは1のほうだ。かなり回り道をしたが、ここまでで「少し先走ってしまった」議論を一通り補完し終えたものとする。
さて、1が非難に値するかどうかという問題を考えるにあたって、さらに論点を整理しておこう。

  • 件の記事で述べられた状況と論拠において、子猫殺しは正当化できるかどうか
  • 件の記事で述べられた子猫殺しが、本当に実話であるかどうか

この2つの論点のうち前者について「正当化できない」、後者について「実話である」という結論がそれぞれ得られた場合にのみ、坂東眞砂子を道徳的に非難するという行為が正当なものとなると思われる。逆にいえば、どちらか一方でも所期の結論が得られなかった場合は、坂東眞砂子への道徳的非難そのものが、道徳的非難に値する行為ということになるだろう。
ご異議はないですか?
ああ、一つ言い忘れていた。もし実話でないものを実話として語ったのなら、嘘をついたことになるほわけで、嘘をつくことは悪いことだから、道徳的に非難されるべきだ、という考え方もあるだろう。「これが実話なら子猫を殺しているから非難されるべきだ。これが作り話なら嘘をついているのだから非難されるべきだ。つまり1の真偽にかかわらず、坂東眞砂子は非難される」という両刀論法だ。でも、子猫殺しと嘘つきを同列に扱うのはいかがなものか。ここでは、子猫殺しを理由とする坂東眞砂子への非難に話を絞ることにしよう。この方針は、先に2の論点をあまり重視しないという態度とも齟齬をきたすものではないと思う。
さてさて、純粋に知的な探求を行う立場にたてば、子猫殺しは正当化できるかどうか、という問題に比べると、本当に坂東眞砂子が子猫を殺したのかどうか、という問題のほうはあまり興味を惹くものではない。だって、そんなの実地調査すればわかることなんだから。で、純粋に知的な興味によってこの問題に取り組む人なら、坂東眞砂子を非難しようなどという気はさらさら起こらないだろう。
しかし、世の中の人々の多くは、直接自分と利害関係のない問題を扱う場合であっても、必ずしも純粋に知的な関心のみに基づいて考察を進めるわけではない。むしろ、共感や同情、嫌悪や抵抗などの感情に動かされて、物事を論じるのだ。それはそれで悪いことではない。みんながみんな思考機械のようになってしまった社会など、想像するだけでそら恐ろしい。
でも、もしこの問題について、感情をベースとした議論を行い、坂東眞砂子の行為を非難しようとするなら、まずこれが実話なのかどうかという点を検討しなければならない。たぶん机上の検討だけではすまないだろう。関係者の証言を求めたり、現地に赴いて調査を行ったり、いろいろと手間かかかることも多いだろう。そこまでの手間をかける気がなかったり、物理的にそれが不可能だったりするなら、不本意かもしれないが坂東眞砂子を非難することはできない。いや、やってできないことはない*4が、その非難は道徳的に正当化されない
「それじゃ、自由に意見を言うことができないじゃないか!」
そうかね? 事実関係が不明でも「もし……だとすれば」と仮定した上で、いくらでも自由に意見を言うことはできると思うのだが。「もし、不妊手術が可能な状況でありながら坂東眞砂子が子猫殺しを選んだのだとすれば、かくかくしかじかの理由でその行為は正当化できず、道徳的に悪である」と言ったって構わない*5。ただし、もし-節を落としてストレートに「坂東眞砂子の行為は道徳的に悪だ」と言ってはいけないというだけのことだ。
これでいちおうおしまい。本当は、動物の愛護及び管理に関する法律タヒチ在住の日本人に適用されるのかどうか、という問題も扱ってみたかったが、法律のことはよくわからないし、本文が長くなってしまったので省略する。そのかわりに、法的観点からのコメントをひとつ紹介しておく。


上記の改正動物愛護管理法は、あくまでも日本の法律なので、タヒチ在住であるという坂東眞砂子氏には、適用されないのかもしれない。しかし、フランスにも日本と同様の動物に関する法律があって、日本における改正動物愛護管理法にあたる、動物虐待罪規定を盛り込んだ刑法(1959)と動物遺棄罪を規定した「自然保護に関する法律」(1976)に照らし合わせても、坂東眞砂子氏の、生まれたばかりの子猫を崖から放り投げる、という行為は、タヒチにおいても、おそらくは処罰の対象となりうるだろう。
あっ、タヒチってフランス領だったのか!

またひとつ勉強になった。

*1:なお、今は夜なので眠くて思考力が十分に働いていない。

*2:「倫理」と「道徳」という語を峻別して用いる人もいるが、ここではそのような区別は設けない。一つには、この話題についてあまり厳密な話をするつもりがないからで、もう一つの理由は、倫理または道徳の特質を分析する前に用語の段階で区別を立てることで論点の先取りを恐れるからだ。

*3:今はまだ1については何の合意もないということに注意。

*4:実際やっている人は大勢いる。

*5:とはいえ、書きようによっては言外の含みで無条件の非難を表してしまうことがあるので、あまりこの書き方は推奨できない。