幸福の数学

時間切れで尻切れトンボになってしまった幸福とは何でないかの続き。
論述の手間を省くため、ここで以下のルール*1に基づく省略記法を導入することにしよう。

  1. 「幸福」という表現を省略して「K(0)」と表現する。
  2. 「現在の自分が幸福であると知っている状態」という表現を省略して「K(1)」と表現する。
  3. 「現在の自分が「現在の自分が幸福であると知っている状態」であると知っている状態」という表現を省略して「K(2)」と表現する。
  4. 以下、同様に「現在の自分がK(x)であると知っている状態」という表現図式に当てはまる表現を「K(x+1)」という表現図式に基づき表現する。

さて、「で、みちアキはどうするの?」 - 幸福とはなにか?で明示的に主張されているのは、

  • K(0)=K(1)

だけであり、

  • K(1)=K(2)
  • K(2)=K(3)

などが主張されているわけではない。また、当然のことながら

  • 任意の自然数nに対して、K(n)=K(n+1)

とか

  • 任意の自然数mに対して、K(n)=K(m)

という主張が為されているわけでは決してない。しかしながら、もし原主張に代入則を無制限に適用できるならば、今例示したような主張が原主張から出てくるはずだ。そして、それは不合理*2だ……というのが前回考えていたことだった。
では、どう考えればいいのか。考えられる方策は次の2つだ。

  1. 「K(0)=K(1)」という原主張そのものを拒否する。
  2. 「K(0)=K(1)」は受け入れるが、そこに無制限に代入則を適用することを拒否する。

個人的には前者に強く心惹かれるのだが、それではちゃぶ台返しになってしまいかねない。後者の方策を探ろう。
さて、代入則の適用に制限をかけるとすれば、いったいどこで制限をかけるべきか。n回までは代入可能だがn+1回は代入不可能だ、というような運用基準を定めるのは難しいので、ここはやはり代入は一切不可と厳しく考える*3のが自然だろう。
ここから先は先の省略記法は忘れて、自然言語で話を進めることにする。
もし「幸福=現在の自分が幸福であると知っている状態」という同一性言明が成り立ち、かつこの言明の中に2度現れる「幸福」のうち後者に前者を代入することが不可であるとすれば、そこにはどのような事情が想定できるだろうか? ひとつには「幸福」が2度の現れで異義語として用いられている場合が考えられるが、そのような解釈はあまりにも場当たりすぎる。より自然な解釈として、「現在の自分が幸福であると知っている状態」が意味論的に分解不能な一語*4だという解釈を提示しよう。
これはどういうことか。「現在の自分が幸福であると知っている状態」は見かけ上は「現在の」で時制を表し、「自分が」で主体を表し、「幸福である」で幸福であることを表し……とそれぞれの部分が独自に一定の意味論値*5を持ち、「現在の自分が幸福であると知っている状態」は各々の部分の意味論値の合成を意味論値としてもつものだと思われる。だが、字面に拘ってはいけない。旧会津国に路線があり、普通列車のみの運行で全線非電化だった「磐梯急行電鉄」のことを聞いたことがある人も多いだろう*6。「現在の自分が幸福であると知っている状態」も同様で、個々の構成部分の意味とは関係はなく、現在の自分が幸福であると知っている状態を直接指示する語なのだろう。つまり、「これ」とか「それ」などと同じく、これ以上の意味論的分析が不可能な表現なのだ。
そう考えると、


ですから、「幸福とはなにか?」と問われたとき、その問いが「〈わたしの〉幸福とはなにか?」を意味するものであれば、それに答えることはできません。それは問うた本人以外は知り得ないものであり、他人が教えることは決してできない。そういうものなのです。
この箇所で筆者が何を言わんとしているかがうっすらと見えてくる。
「幸福とはなにか?」という問いに対しては、何事かを語るという仕方では答えることができない。「現在の自分が幸福であると知っている状態」という答えは、一見何かを語っているかのようだが、実は何も語ってはおらず、単に示しているだけなのだ。幸福を示すことができるのは当の本人だけであり、他人には知り得ないものなのだ……。
……というふうに解釈してみたのだが、最後のほうはちょっと飛躍が大きかったかもしれない。分析不可能性と私秘性をごっちゃにしてしまっているし。
……というふうに解釈してみたのだが、最後のほうはちょっと飛躍が大きかったかもしれない。分析不可能性と私秘性をごっちゃにしてしまっているし。
本来なら引き続きちゃぶ台ひっくり返しに進むところだが、疲れたのでこれでおしまい。後は任せた(誰に?)。

*1:ルールの記述の仕方に多少厳密さを欠くところがあるが、察し読みをして貰いたい。

*2:その後、考え直してみて、必ずしも不合理な事態は発生していないのではないか、と思うようになった。「K(0)=K(1)」を定義とみなすからいけないのであって、これは単なる事実の指摘ではないか、と。定義が無限の入れ子構造を持っていてはまずいかもしれないが、そのような循環構造が現に事実としてあるのなら、それはそれで仕方のないことだ。では、ここには何も問題はないのか? そうではない。仮に何も不合理はなくても、「K(1)=K(2)」とか「K(2)=K(3)」という主張は端的に虚偽であると思われる。

*3:誤解のないように書きそえておくが、今取り扱っている問題は「頭髪が何本以上あればハゲではないか?」というような問題とは似て非なるものだ。その種の問題にオールオアナッシングの発想を持ち込むのは馬鹿げている。

*4:たとえば「独身=結婚していない」を「独身貴族」に代入して「独身貴族=結婚していない貴族」とパラフレーズするのは、「独身貴族」が意味論的に分解不能な一語だという事情を無視しており、誤った分析だ。

*5:平たくいえば指示のことだが、「指示」という語自体が独特の問題を含んでいるため、ここではより抽象的な「意味論値」という語を用いた。

*6:知らない人はかわりに神聖でもなければローマ的でもなく帝国ですらなかった「神聖ローマ帝国」を思い浮かべてもよい。