ハルヒ以後のネットユーザーの行動様式の変化について

ねこの画像が満載のサイト管理人からの問いについて考えてみる。

反基礎付け主義の立場で特定の主張(たとえば「ハルヒのアニメ化以後、ネットユーザーの行動様式が○○になった」という主張)がなされた場合、この主張の《説得力》はどのように担保されるのでしょう。この主張に対しある人が「なんでそう言えるの?」とその理由・基礎の提示を求めた場合、どう答えるのが(1)自分の立場に一貫し、かつ(2)説得力も獲得しているといえるでしょうか?

言うまでもなく、問いの焦点は反基礎付け主義にあるのであって、ハルヒ以後にあるのではない。とはいえ、世間一般の人々の関心は前者よりも後者のほうに向いている*1のだから、後者をむげに扱うことは適切でないと思われる。よって、今回の見出しで示したごとく、例示された主張に即して話を進めることにしよう。その結果、反基礎付け主義の話題がすっとんでしまったとしても仕方がない。世の中、その種の本末転倒はいくらでもある。
さて、議論を進める前に、引用文中の伏せ字の部分を補っておこう。

 それは、だいたいこんなストーリーだ。

 ハルヒのアニメ化以後、ライトノベルに対する関心が高まったが、それは2004年ごろのライトノベル系ムックの相次ぐ刊行の際に言われた「ライトノベルに対する関心の増大」とはかなり異なった現象だった。ハルヒのアニメ化によって、(1)一般的オタク層からライトノベル圏への流入が部分的にせよ起こり、(2)従来のライトノベルファンの間でも、意識の上で(『涼宮ハルヒの憂鬱』という)ライトノベル作品の背後には多くの非ライトノベルファン(アニメファン?)がいることが認識されて、それが振る舞いを変化させた。例えば、ハルヒを通じて谷川流を知った層に対して「谷川流作品なら『学校シリーズ』も面白いよ」と「おすすめする」振る舞いがそれに当たると思う。そして、ジャンルのタコツボ化(島宇宙化)が進んで相互に対話が難しくなるという状況の中で、ハルヒのアニメ化はなんらかのインパクトを持つのではないか――と、こんな感じだった。

いま引用した箇所では、「ネットユーザー」という言葉は用いられていないので、広く解釈すれば、インターネットによるコミュニケーションを図っているか否かに拘わらず、広くオタク的興味関心を持つ人々に共通に見られる現象についての主張だと考えることもできる。しかし、この文章を引いた目的は、冒頭の引用文の欠落箇所を埋めることだったのだから、今はネットユーザーに話を限定することにしよう。その後、非ネットユーザーに敷衍することができればいいのだが、きっとそんなことはできないだろうと予感している。いい予感はたいてい外れるが、悪い予感はたいてい当たる。だから、この予感も当たることだろう。
さて、検討すべき主張を整理すると次のとおりである。

主張1
ハルヒのアニメ化以後、それまでライトノベルにあまり関心のなかった一般的オタク層が、ライトノベルに興味を向けることになった。
主張1'((これは上の引用文には含まれていない。
//blog.livedoor.jp/dsakai/archives/50579905.html" title="ねことか肉球とか:「ハルヒ以後」とライトノベルについて">原文の追記を参照のこと。)):ハルヒのアニメ化以後、それまでライトノベルにあまり関心のなかった一般的オタク層が、ライトノベルに興味を向けることになった……と従来のライトノベルファンの間で思いこまれるようになった。
主張2
従来からのライトノベルファンの間で、ハルヒのアニメ化を機会に新規参入した層をも念頭においたメッセージを発信するようになった。
主張2の例示
たとえば、ハルヒを通じて谷川流を知った層に対して、『学校を出よう!』など、他の谷川作品を薦めるようになった。
主張3
ジャンルのタコツボ化が進んで相互に対話が難しくなるという状況の中で、ハルヒのアニメ化以後のネットユーザーの行動様式はその流れに抗するものとなっている。

ここで主張3として挙げた事柄は原文では「何らかの」とか「のではないか」という表現で緩められているので、やや踏み込み過ぎだったかもしれない。だが、ここまで言い切るのでなければ話が面白くならない。
では、この一連の議論の構造を確認しよう。
最重要の主張は3であり、1と2は主張3に根拠を与えるものとなっている。2は1'と関連づけられ、さらに例示により補強されている。1と1'の関係については判断が留保されているが、1と1'の間に因果関係が成立するならば、1は3を直接根拠づけるとともに、2を経由して間接的にも3に根拠を提供することになる。
では、それぞれの主張に対して「何でそう言えるの?」と問われたときの回答案について考えてみよう。
まず、主張1。予め我々が取り決めたとおり、ここではネットユーザーに話を絞ることにしているので、主張1を裏づける根拠としてもっとも適切なものは、ハルヒのアニメ化以前にはライトノベルについてほとんど言及していなかった一般オタク層が運営するウェブサイトにおいて、ライトノベル関係の記述が多く見られるようになったという事例だろう。
もちろん、ひとつかふたつの事例で事足りるわけではない。
オタク系ウェブサイトの総数などといったものは誰にもわからないという問題、ハルヒのアニメ化前後でのオタク系ウェブサイトの入れかわりをどう見るかという問題、さらにウェブサイトの影響力の見積もりという大変やっかいな問題があるため、事実上、この主張を統計的に擁護することは無理だと思われる。もっとも、「何でそう言えるの?」と質問する側がそこまで厳密な論証を求めるのではなく、かつ、主張者はオタク系サイトの見取り図をある程度共有しているなら、典型例をいくつか挙げればいちおうの根拠付けは果たしたことになるかもしれない。
次に、主張2について。
これは例が挙げられているので、それによって主張2が擁護されるのかどうかが議論の要点となる*2。果たして、「ハルヒの次には××を読もう」という類の記事が、ネット上のライトノベルサイト界隈の意識の変化を代表しているといえるのかどうか。多くのライトノベルファンは従来と同じく、ライトノベル界隈の読者を主に念頭に置いているのではないか。
これも主張1と同じく統計的にカタをつけることは難しいが、多少とも主張を補強しようとするのなら、明らかにライトノベルに不慣れな人を対象読者として、かつ、アニメやマンガなど一般オタク層になじみのありそうな分野のネタを引き合いに出してライトノベル紹介を行っている記事を多数蒐集すれば、なんとかなるかもしれない。
で、最後に主張3。これはもっとも根拠づけることが難しい主張である。というのは、オタクの興味関心のタコツボ化と反タコツボ化の両方を同時に主張しているからだ。タコツボ化を示すデータは主張の前段を補強する材料にも後段を攻撃する材料にも用いることができ、反タコツボ化を示すデータも同様。
主張1と主張2は主張3の根拠付けとして有効である*3としても、それだけで十分とは言えないだろう。
……と、ここまで何となく思いつきで書いてみたのだが、これまでの議論の中から暗黙の前提を導き出すことができる。それは、潮流や傾向などという直接観察できない抽象的な事柄についての主張が説得力をもつためには、その潮流または傾向を前提としたときに生じるはずの具体的な出来事が現に数多く見られるということを示す必要がある、という発想だ。
さて、この発想は妥当なのかどうか。妥当だとすれば、その妥当性はいかにして根拠づけられるのか。また、この発想を採用したり擁護したりすることは、反基礎付け主義の立場に抵触しないのかどうか。このような疑問がもくもくと沸いてくるのだが、あまり拘ってもアクセス数がアップするわけでもないので、この辺でやめておこう。
最後にひとつだけ。根拠を提示して主張を擁護するという作業と、派生的な知識を基本的な知識で基礎づけるという作業は必ずしも同じではないように思う。

*1:この主張の《説得力》はどのように担保されるのだろうか?

*2:もちろん、主張2の例示に疑いを差し挟むことは理論上は可能だが、このあたりにいくらでも例があるので、疑いを退けることはたやすいだろう。

*3:ただし、後段に限る。タコツボ化が進んでいるという主張を根拠づけるには別の材料が必要となる。