哲学の答え

 物理の「答え」というのは、すべての物理法則を過不足なく記述する方程式を発見することである。これは「必ず存在する」と期待できる。あるいは、「そんな方程式は存在しない」ことが証明されるかもしれない。どちらにしろ、追求する目的が限りなく明確であるという点において、物理には「答え」が存在すると言うことができる。

 では、哲学の「答え」とは何だろうか。善とは何かを決定することだろうか。存在とは何かを決定することだろうか。あるいは、「人はなぜ生きるのか?」という疑問に対する返答を決定することだろうか。いろいろあるだろうが、一つだけ確かなことは、誰にとっても正しい「答え」というものは、哲学においては決定し得ないのだということである。

「人はなぜ生きるのか?」の答えだけでも、「幸せになるため」「善行を積んで天国へ行くため」「お金を稼ぐため」「理由なんてない」と千差万別、十人十色のものを思いつくことができる。そしてこれらの答えの間には、どのような優劣もありはしないのだ。おまえの考えは間違っている、俺はこう思う、なぜならこうだからだ、と議論をすることはできよう。しかし最終的にどんな答えを下すかは各個人にゆだねられるのであって、すべての人間にとって正しい「答え」を追求することなど土台不可能なことなのである。

引用文中で「答え」が鉤括弧に入っているところは、具体的な問いに対する答えというよりは、究極の目的のようなものを意味しているようだ。その意味では、哲学には「答え」はないかもしれない。しかし、3番目の段落で述べられているような個別の問題については、哲学にも答えがあることもある。たとえば、フレーゲの量化理論は「誰もが誰かを愛している」と「誰かが誰もから愛されている」の意味の違いがなぜ生じるのか、という問いに対する答えを与えてくれる*1が、「そんなのは哲学の問いじゃない!」というちゃぶ台返しを別にすれば、まあ最終的な答えだといえるだろう。
「文系/理系」というのは明治時代の日本で学問研究や高等教育の分野を色分けするために考え出された区分で、歴史的にも地理的にも普遍性は全くないし、昨今では学際間の交流が盛んになってきているので便宜上の区別としても徐々に意味がなくなりつつあるのだが、そのような事情は別にしても

 そう。文系とは、主観を扱う学問である。俺はこう「思う」、私はこう「感じる」といった、個人の気分を扱う学問なのだ。いってしまえば「人それぞれだよね」で終わってしまうところを、それでも私はこう思うのだと主張しあうのが文系であると考えられるのである。

というのは学問の現場の実情にそぐわない。「それでも私はこう思うのだ」と根拠もなしに主張するのは学問ではないし、根拠を添えて主張するのなら「人それぞれだよね」では終わらない。
個人が日々の生活の中で何かを選択し、決断し、行動するという実践は、文系でもなければ理系でもなく、もちろん哲学でもない。腹が減ったからベーコンを焼いて食うという活動を栄養学とは呼ばないし、風呂の中で鼻歌を歌うことを音楽学とは呼ばない。それなのに、「人はなぜ生きるのだろうか?」と思い悩むことをなぜ哲学だとみなすのだろうか?

*1:これは『言語哲学大全1 論理と言語』で答えの出る哲学の問題の例としてあげられていたものだ。ただし、現物が手許にないので不正確な紹介になっていたらごめんなさい。