書くコスト、読むコスト

 じゃあ、きっちり書けばいいのか、というと、必ずしもそうではありません。きっちりした文章は、書く場合でも、そして、読む場合でもコストがかかります。高コストな文章は、書きにくく、読みにくく、結果として文章の機能性が下がります。たとえ、読まれなくても、長く、よく構築された文章を書き、文章力を鍛えるか、逆に、文章を削り、SBMのコメント欄の100字、Twitterの140字でメッセージを伝えるか、そこはお好みでというところですが。

一瞬、この人が書いたのかと思った、てなどうでもいい話はさておき。
きっちりした文章とそうでない文章とで、読み書きするのにかかる費用が大きく違うとは考えにくいので、ここでいう「コスト」とは金銭的なそれのことではないことは確かだと思う。では、どのようなコストを考えているのか。思いつくのは時間的コストと心理的コストくらいだ。
時間的コストというのは、要するに読み書きするのにかかる時間のことだ。文章を書きとばすのと、きっちりと構成するのとでは、書く時間が全然違うのは言うまでもない。ただ、読む側の所要時間のほうはよくわからない。書き飛ばした文章を読むときにはかえって時間がかかるかもしれないからだ。いずれにせよ、短文より長文のほうが読むのに時間がかかるとは言えるだろうが。
心理的コストのほうは時間的コストに比べると漠然とした概念だ。読み書きすることへの抵抗感や緊張感、いざ取りかかったときの疲労など、あるいはまだほかに要素があるかもしれない。書く側にとっては、書き流しでいい場合に比べて、きっちりとした文章を書かないといけないと思ったときのほうが緊張が高まるので、コスト高といえるかもしれない。一方、読者の側にとっては、きっちりと書かれた文章のほうが頭にすんなり入ってくるはずなので、コストが低いということになるように思う。
……というようなことを書き流しながら考えているうちに、どうも変だという気がしてきた。もともとBlogを書くと文章が荒れる問題 - REVの日記 @はてな高速に書くと推敲が甘くなる - fuzzy Weblog@hatenaを受けて書かれていて、さらにこの話題はブログを書いていると文章が下手になる - 横浜逍遙亭に遡るのだから、この文脈でいう「きっちりした文章」とは書き殴った文章と対比されているはずなのだが、後段になると「長く、よく構築された文章」と言い換えられて、「文章を削り、SBMのコメント欄の100字、Twitterの140字でメッセージを伝える」という局面と対比されており、複数の尺度がごっちゃになっているように思われるのだ。
たとえば、

  • 文章が物理的に長いか、短いか
  • 思いつきをそのまま書くか、練り上げるか
  • 論理的ステップを明示するか、文脈から察せられる事柄を省略するか

など。ほかにもあるかもしれない。
少なくとも読み手側の時間的・心理的コストの高低は、どういう意味で「きっちりした文章」とそうでない文章を対比しているかによって違ってくるのではないかと思う。
なお、この文章はだいたい40分かけて書いた。

追記

上の文章を読み返してみると「書きとばす」「書き飛ばした」と漢字の使い方に乱れがある。全然、推敲していない証拠だ。直そうかとも思ったが、これも何かの参考になるかもしれないと思い直したので、そのままにしておく。
もし、この話題できっちりとした文章を書くつもりなら、途中で思いついたことを思いついた順に書いたりせずに、論点を整理して全然別の流れになっていただろう。そんな文章を書くのはしんどいのでただではやりたくないのだが、仮にやるとすれば半日くらいかけることになったと思う。
ちなみに、この追記を書くのには7分くらいかかった。