「商業性」の地平

「○○の地平」と書くと、現代思想臭がぷんぷんと漂ってくるような気がする。ほかには「浮遊する○○」とか。
と、そんなどうでもいい話はおいといて、本題。
昨日書いた「商業創作」の評価にレスがついたので、再度コメント。

僕の言う「商業性」とは、作品が収益を上げられる程度に売れるか売れないかという評価であって、作り手が良好な労働条件の元にそれを作ったかとか、中間業者による搾取があるかないか、というような作り手の労働市場の適正性の評価とは厳密に区別できる。

高橋氏のいう「商業性」は、作品の優劣をはかる一つの評価軸としてここで提示されたもので、最初読んだときにあまりよくわからないまま「売れるか売れないか」ということだろうと推測したのだが、ここでの意外な補足説明*1により、「商業性」が裾切り基準*2だとわかった。なるほど、作品評価のさまざまな基準のうちに、一つくらい裾切り基準があってもおかしくはない。
さて、問題はそのあとだ。
高橋氏は、「商業性」と労働市場の適正性の評価とは厳密に区別できると主張する。確かに概念的には区別可能だろう。だが、「商業性」を作品の優劣を評価する際の裾切り基準として用いようとするときにはどうだろうか? 作り手の労働条件や中間搾取の有無などによって、収益率や損益分岐点が変わってくることは十分にあり得る。つまり、労働市場の諸事情が、商品市場における「商業性」を左右することにもなる。
この論点は、ここらあたりの話題*3にも繋がっていくのだが、少し風呂敷を広げすぎたようなので、今回はここまで。

*1:「意外な」というのは、作品の優劣の比較という観点に拘り過ぎていたからだ。どこに書いてあったのか忘れたが、高橋氏は「がっぽりと儲けられるだけ儲けるというのではなくて、ふつうに飯を食って作品制作を続けることができる程度に儲かればいい(大意)」と言っているので、それを踏まえればここでの「商業性」の説明は意外でもなんでもない。がっぽり儲ける話といえば、印税やら原稿料やらを株にどんどん投資して、本1冊出す以上の収益を上げながらも、さらに先物取引に手を出そうとしている人のことをふと連想した。

*2:足切り」のほうが通りがいいが、ここでは政治的に正しい「裾切り」を採用した。なお、「足」は常用漢字に入っているが「裾」は入っていないので、ここで述べた基準によれば「裾切り」のほうが政治的に正しいことになるのだが、時と場合によって基準を臨機応変に変えるのが政治というものだから、この程度の不整合を気にしてはいけないのだ、たぶん。

*3:本当はそのリンク先で先鋭化されているのだが、なんとなく直接リンクをするのが気がひけるので、ひとつ前にリンクした。この世には、「関わってはいけないというほどの禁忌ではないが、なるべくなら関わらずに無難に過ごしたい領域」があるのだ。