作品の面白さ/つまらなさとは?

あるものを「作品」と呼ぶとき、それを作品たらしめている社会的制度が前提とされている。ただの男子用便器とデュシャンの「泉」を分けるもの、それはそれぞれの物理的特性ではなくて、作品を作品たらしめる制度のもとに置かれているかどうかの違いだ。アングルの「泉」でも同じで、ある地点p*1において、一定の空間的領域を占める板状の物体があり、その表面に油溶性の粘液状の物質が塗布され固着していて、その成分は……といくら分析したところで、これが一つの作品であるということを根拠づけることはできない。
作品を作品たらしめる制度というのは、もちろん人間が作り上げたものだ。ひとことで「文化」と言ってもいいだろう。文化は非常に多くの人々が関わって作り上げられたもので、いつも少しずつ誰かが改変しつづけている。だが、大ざっぱにみれば、ひとりひとりの文化的活動からは比較的独立を保っており、通常は誰かがひとつ作品を作ったり、誰かがそれを鑑賞したりするだけで、文化が大幅に変化することはない。
個々の作品には美的価値が備わっていて、それは作者がその作品に込めようとした意図とも、ひとりひとりの鑑賞者がその作品に対して抱く感想とも異なる。作者とも鑑賞者とも無縁ではないが、単純に還元はできない。もし、作品の価値をに還元しようとするなら、作品を作品たらしめる制度に関わるすべての人々の活動を記述する必要があるだろう。実際上、そんなことは不可能に近い。それよりは、まったく事実に反することではあるが、作品があたかも物理的な実体でありその作品の価値はその実体に内属する性質であるというふうに考えて、還元の試みを断念するほうがいくらかはましだと思われる。要するに、作品は作者のものでも読者のものでもなく、その作品に全く触れたことがなくそんな作品があることすら知らない人々さえも含めた、社会全体の共有物なのだし、作品の面白さやつまらなさもまた同様なのだ。

追記(2007/12/24)

アングルの「泉」について、コメント欄でぎをらむ氏から指摘を受けたので調べてみると、こんな記事が見つかった。なんか騙されたような気分だ。

*1:たぶんルーブル美術館だと思うが、もしかしたら今は別の場所にあるかもしれない。