たくとにる

見出しはだいたい「『炊く』と『煮る』」という意味だが、「『煮く』と『煮る』」または「『焚く』と『煮る』」という含みもある。しかし常用漢字の音訓表には「煮」に「た・く」という訓はないし、「焚」はそもそも常用漢字ですらない。そこでこの記事では「たく」はすべてひらがなで書くこととした。釣り合いをとるために「煮る」もすべてひらがなで「にる」と書く。「にる」には「似る」という全然別の意味もあるが、混乱を避けるためこの記事では「似る」のほうは使わない。よって、以下の文中で「にる」と書いてあれば、安心して「煮る」と読んでいただいて結構だ。
さて、ここから本題。
関西*1ではご飯をたいて食べるほかに、野菜をたいたり、魚をたいたりすることもある。また肉もたく。果物をたくことはあまりない。
一方、関東*2でもご飯をたいて食べることはあるが、一般に野菜や魚をたくことはない。かわりに野菜や魚はにて食べる。
……と書いたが、別にこれは食材の調理方法の違いではなくて、言葉遣いの違いだ。だから、正しくはこう書くべきだ。関西では野菜や肉を水またはだし汁などを張った鍋に入れて加熱して調理することを「たく」と呼び、関東では同じ調理方法を「にる」と呼ぶ、と。
以前から、関東の「にる」という言葉が不思議でならなかった。米や麦などの穀物の場合は「たく」というのに、どうして副食材になると「にる」になるのか? 調理方法自体に大きな違いはないと思うのだが、わざわざ区別する必要はあるのだろうか? また、米のご飯でも他の具材と一緒にたくときには、関西では「たきこみご飯」と呼ぶが、関東では「にこみご飯」となる*3。比率からいえば、米のほうがずっと多いはずなのに、なぜそこで「たく」から「にる」に変わってしまうのか?
言葉には歴史があり、必ずしも現時点でもっとも合理的な秩序づけによって使われているわけではない。たとえば、「すき焼き」という鍋料理があって、これは、焼くといえば焼いているようではあるが、醤油やら割下やらを入れてたきこむ/にこむ料理にも思われる。しかし、昔は鋤の上で鳥や魚を焼いて食べる料理だったそうで、調理方法や具材が変化した今も、その名前が残っているわけだ。「すきだき」とか「すきに」とは言わない。
また、関西にはどて焼きという料理があって、これも焼きものというよりはたき材なのだが、「どてだき」とは決して言わない。そういえば、今年の初詣は犬山の成田山に行った*4のだが、そこで出ていた屋台に「どて煮」*5と大きく書かれていて気になった。少なくとも見た目は関西のどて焼きに非常に近いものだった*6
「すき焼き」「どて焼き」のように特定の料理名をみれば、字面の意味からずれていることはよくあって、それは歴史的経緯により説明がつくことが多い。しかし、「たく」「にる」のような、一般的な語の適用範囲は幅広いため、いちいち適用される料理や具材ごとに歴史的経緯を参照して使い分けているわけではないだろう。だとすると、関東での「たく」「にる」には何らかの基準があるのではないかと思われる。だが、それが何なのかはわからない。
関西では原則として「にる」は使わないから、その点ではわかりやすい。食べ物だけでなく「風呂をたく」という表現もあるから、一般に何かの容器で湯を沸かしてそこに何かを入れるのは全部「たく」だ。うん、わかりやすい。
いやまて、たき火はどうだ。柴をたくのに水も鍋も使うわけではない。「たく」はもっと幅広い言葉ではないか。だとすると、「たく」と「焼く」はどう違うのか?
もちろん「たく」と「焼く」には歴然とした違いがある。「柴をたく」と「柴を焼く」では、現象としては同じであっても、それぞれの行為の意図は全然別物だ。だが、柴の場合の「たく」と「焼く」の違いと、料理の場合のそれとは同じではない。料理の場合にはやはり水を使うかどうかが決め手となる。水の中に具材を入れれば「たく」、水の中に入れずに湯気で加熱すれば「蒸す」、水ではなく油を使えば「揚げる」……などなど。
そういえば、料理用語には「ゆでる」*7というのもあった。「たく」または「にる」とどう違うのか? 温泉卵はたまごをゆでているのかたいているのか?
ごく当たり前のように使っている言葉が、考えれば考えるほどわけがわからなくなってくる。
最後にもうひとつだけ。
鍋料理の中には寄せ鍋のようにだし汁を使わずに、水だけ、あるいは軽く昆布などでだしをとるだけのものがあって、「水だき」と呼ばれる。水でたくから水だき、実にわかりやすい名称だ。だが、関東では、これって「たく」のではなくて「にる」のではないか? そうすると「たきこみご飯」が「にこみご飯」になるように、「水だき」も「水煮」*8ということになるのだろうか? それは別の料理ではないかと思うのだが……。

*1:十把一絡げに「関西」といっても多種多様な文化があるし、いったいどこからどこまでが関西なのかという疑問もあるのだが、今は漠然とした話しかできない。

*2:こちらも関西と同じような問題がある。また、日本中で関東でも関西でもない地方のことは無視するのか、という非難も当然考えられることだが、自分の生まれ育った関西と、仕事や遊びでよく訪れる関東以外の地域のことは正直いってよく知らないので言及しようがない。ご容赦いただきたい。

*3:(2008/02/03追記)コメント欄やブクマ等で関東出身者から「にこみご飯」という言葉は使わない、との指摘を受けました。検索すると相当数ヒットするので、全く使われていない言葉ではないと思いますが、特に関東でよく使われているとか、「たきこみご飯」より優勢である、ということではないようです。

*4:中京圏以外の人にとっては「成田山が犬山にある」という驚くべき事実はあまり知られていないが、地元では結構有名らしい。犬山モノレールが今年廃止されることになったので乗りに行ったついでに立ち寄ったのだが、参詣客の多さに驚いた。いや、てっきり有名寺社の名前だけもらってきたアレなスポットだと思っていたのだが……。

*5:「煮」という漢字は使わないと宣言したが、これは屋台の表記そのものの引用なので仕方がない。

*6:ここのところをつい「非常によくにていた」と書きかけたが、粗冒頭の宣言を思い出して言葉をかえた。

*7:我が家の近辺では「うでる」という。「うだるような暑さ」の「うだる」と同じだ。「うでる」というのはよそではあまり聞かないのでごく限られた地域だけの言い方だと思うが、「ゆでる」に完全に対応しているので、これは単なる音韻上の違いに過ぎない。

*8:「煮」という漢字は誓わないことにしてきたが、さすがに「水に」は変なので、ここだけ漢字にした。