「本の面白さはドラム缶の形に似ているかもしれない」への批判に対する若干のコメント

本の面白さはドラム缶の形に似ているかもしれない - 一本足の蛸

 上の記事では、「本の面白さ」は「ドラム缶の形と同じく客観的な実在」と考える主張が展開されている。言い換えれば、「本の面白さ」はそれ自体、主観を経由することなしに客観的に実在する、というかなり大胆な主張だと思う。自分の直観的には、「本の面白さ」は人が本を読むことで――つまり主観を媒介することで――はじめて存在するように感じられるのだけど、だからその意味で「本の面白さ実在論」はかなり大胆な主張だと思う。

 示唆に富む内容だけれど、でも、ドラム缶の例えを用いて言うことができるのは、「本の面白さ」自体が実在することではなくて、むしろ本の内容が実在することに留まるんじゃなかろうか。(なお、はてなブックマークでも同様の指摘があった。)

この後、ドラム缶の形と本の面白さのアナロジーの分析があり、難点を指摘した上で代案まで提示するという見事な構成になっている。自分で書いていても「『面白さ』という言葉はちょっとまずいかな」と思っていたくらいなので、全くぐぅの音も出ない。
確かに「本の面白さの感じ方、捉え方」というのはぎこちない言い回しだった。ドラム缶の喩えから引っ張ってきて「立体的な面白さ/平面的な面白さ」という用語も検討してみたのだが、どうもぎくしゃくするように思い、最終的には現行の形にした。今になってみれば、「評価/面白さ」のほうがわかりやすかったかもしれないという後知恵も浮かぶのだが……*1
ただ、ひとつだけ言い訳をすると、件の記事のポイントは、「人によって違う」ことが必ずしも「人(の主観)によって違う」ということを意味するのではなく、しばしば「人(のおかれた客観的な状況)によって違う」ということに過ぎないという主張である。この考えを極端に拡張すれば、森羅万象すべてが客観的な実在であり、主観に属する事柄は何一つない、というウルトラ実在論も主張できそうだが、さすがにそこまで言う気はない*2
ある本は客観的に実在し、その本に書かれた内容もまた客観的に実在する。では、その本の面白さや価値や意義や質といったものは客観的なものかどうか。少なくともそれらについて万人の判断が一致することはあり得ない。だが、さまざまな人が同じ本について語っていることを吟味し、その本が本来備えている多面的な相をある程度再構成できるのではないか*3、とも思う。
これがものの立体物の形についてなら、その展開図に山折り・谷折りなどの適切な指示が書き込まれていれば、元の形を再構成すするのはたやすい。しかし、個々の人の感想からその本が本来備えている(と想定される)面白さや価値や意義や質を再構成する具体的な手続きはない*4
従って、「本の面白さ」が実在するという主張は砂上楼閣に過ぎず、堅実かつ慎重に語るのなら、実在性の主張は「本の内容」に留めておくべきなのだろう。それはわかっているのだが、他方では本の面白さについて自他が共有する何らかの基盤があるに違いないという思いもある。そこで、前回の記事では少し大胆に仮説を披露した次第。

*1:でも「評価」は「評価する」という行為の結果なので、人の行為に先立つ客観的な実在を表すのにはふさわしくないような感じもする。

*2:おそらく純粋な感覚は全く主観的な事柄だろうし、言語化されていない純粋な感情もそうかもしれない。

*3:これは純粋に主観的な事象については全く不可能である。たとえば、同じものに触れたときにある男は痛みを感じ、ある女は痒みを感じたとして「彼の痛みと彼女の痒みを総合して、多面的な感覚の相を再構成する」などというのは無意味だ。

*4:いや、もしかしたら数ある批評理論の中には、そのような着眼点に基づくものがあるのかもしれないが、不勉強なので具体例を挙げることができない。