どっちが正しいの?

新自由主義という言葉はlibertarianismの訳語でしょう。これはliberalismという言葉が、アメリカでは「大きな政府」を求める人々をさすようになったため、古典的自由主義をそれとは区別するためにつくられた英語で、新自由主義と訳したのは西山千明氏だそうです。これをイデオロギー的な蔑称として使うのは特殊日本的で、アメリカでは価値中立的な言葉です。"I'm a libertarian"という人も多い。特に経済学者は、おそらく過半数リバタリアンでしょう。この背景には、経済学の長い論争の歴史があります。

【略】

記:新自由主義をneoliberalismの訳語だと思っている半可通もいるようだが、これは西山千明氏が『隷属への道』の訳者あとがきで書いているように、彼が1970年代にフリードマンのlibertarianismを訳したのが最初。

普通は,「neoliberalism」の訳語だと考えると思うのですが,池田先生は「neoliberalism」という言葉が用いられている英語文献をお読みになったことがないのでしょうか(「neoliberalism」でググっていただければ,おびただしい量のサイトが検出されると思いますが。)。

経済学に通じていない素人考えで恐縮ですが……。
「libertarianism」には「新」に相当する要素がない。ただし、「Light Rail Transit」を意訳して「新型路面電車」と言った時代もあるくらいだから、「libertarianism」に「新自由主義」という訳語をあてるという発想も十分ありそうなことだと思う。ただ、「neoliberalism」という、直訳すればそのまま「新自由主義」になる言葉が広まっていくと、「libertarianism」と「新自由主義」の対応関係を保ち続けることに不都合が生じてくる。全く別の分野の言葉なら訳語が同じでも問題はないが、「libertarianism」と「neoliberalism」の両方を「新自由主義」と訳してしまっては意味が通じなくなる場面もあるだろう。そこで、「libertarianism」は「新自由主義」という訳語を「neoliberalism」に譲って/奪われて、かわりに「自由放任主義」「自由尊重主義」「自由至上主義」などさまざまな訳語があてられたけれど、結局どれも定着せず、今ではカタカナの「リバタリアニズム」がもっとも優勢になっている……というストーリーは考えられないだろうか?
全然関係ないけれど、「realism」と「actualism」の両方が出てくる文脈では、どちらに「現実主義」という訳語をあてればいいのか、という問題をふと思い出した。

追記

本文を書いたあとで以下の記事を読んだ。

むむむ、ますますわからなくなってきた。
ところで、前者の文章の最後の段落はこうなっている。

以上のようなことは欧米の知識人には常識であり、経済学者も(学派を問わず)スミスの経済的自由主義を大前提として議論しているのである。自由主義の伝統がない日本でそれが理解されていないのは仕方ないが、そういう無知をブログで公言して「新自由主義は終わった」などと繰り返すのはいい加減にしてほしいものだ。

この文章を最初読んだとき、「以上のようなこと」の中核は新自由主義」が「libertarianism」の訳語であり「neoliberalism」の訳語として用いるのは混乱のもとだという主張だと思った。でも、よく考えてみると日本語の「新自由主義」という言葉の用法について欧米の知識人が何らかの常識を持っているというのはおかしなことなので、たぶん「新自由主義」の用法に関する主張は「以上のようなこと」のうちには含まれないと解するべきなのだろう。もしかしたら同じ誤解をした人がほかにもいるかもしれないので、念のため。