一本足の蛸

その朝、むせるほどの磯のにおいで目を覚ますと彼女は一本足の蛸だった。頭とも胴ともつかない重くてぐにゃりとした本体から、無数の吸盤に覆われた気味の悪い野太い足がたった一本だけ生えていて、足は彼女の意志とは無関係にうねうねと波打つように蠢いていた。彼女は恐怖に震え、声にならない悲鳴をあげ、そしてどす黒い墨を吐いた。
どうしてこんな姿になってしまったのかと彼女は自問し、記憶を探った。最初のうちは夢と現実の記憶が攪拌した濁水のように入り混じっていたが、朝から昼へと流れる時間の中で徐々に沈澱物と上澄みとが分離していった。その間、彼女は一本しかない足を何度となくぐるぐると振り回した。それが考え事をするときの癖だった。
数刻の思索ののち、彼女は自分の身に起こったこと、起こらなかったことをはっきりと区別できるようになった。彼女は夜の眠りの間に人間になった夢を見、朝のめざめとともに一本足の蛸に「変身」した自分の姿を見いだして絶叫したのだ。そして、その「変身」は今日だけでなく、昨日も一昨日も経験したことだった。
彼女は自分に言い聞かせる。何も恐れることはない。私はおぞましく汚い人間などではなく、優美で気高い一本足の蛸なのだと。だが、彼女は今晩もまた同じ夢を見る、そして明日もまた「変身」して絶叫することだろう。夢に惑わされて、地上で唯一の完璧で崇高な自分の姿に嫌悪を感じてしまうとは、なんと愚かしいことだと彼女は思った。
やがて太陽は南の空から西の空へと動いていった。彼女は磯の近くの岩場に登った。一本足でとぐろを巻いてその上に本体を横たえ、静かに目を閉じる。これまでの経験で午睡のときには夢を見ないことを知っている。午後のあたたかな日差しのもと、彼女は夜の悪夢に備えて休息をとった。やさしい潮風が一本足の蛸にやすらぎを与えた。