貧しき人は何故富める人々の代弁者となるのか?

ある一つの社会に、少数の富める人々と多数の貧しき人々が混住しているとき。
素直に考えれば、それぞれの層の人々は次のように振る舞うはずだ。

  • 貧しき人々は不平等に憤りを感じ、富める人々に富の再分配を要求する。
  • 富める人々は貧しき人々の怠惰と無能を批判し、富の再分配要求は不当だと主張する。

だが、実際にはそれぞれの層の人々は必ずしもこのようなパターン化された振る舞いをするわけではない。
たとえば、貧しき人々のうちに、富める人々の主張に賛同して、平等主義を批判する人がいる。貧しさは不平等の故ではなく、単に自己の才覚や努力が足りないせいだという。富の再分配が行われたほうが自身にとって利益が大きいことは明らかであるにもかかわらず、あえて現状を容認するのはなぜか?
このような「富める人々の代弁者」を不合理だという理由で非難するのはたやすい。しかし、何事についても、単に「不合理」の一言で片づけるのは安直である。筋外れにも何らかの筋がある。それをすくい取ることのほうが大切だ。
「富める人々の代弁者」については、次のようなメカニズムが想定可能だ。

  1. 自分の貧しさに不満を感じ、富める人々との落差を嘆く。
  2. この落差は自力では埋めようのない絶対的なものであると認識し、絶望する。
  3. 絶望から逃れるため、富める人々に「ありうべき自分の姿」を投影する。
  4. この投影が破れたとき、寒々とした現状が否応なく突きつけられるため、極力抵抗しようとする。
  5. 富の再分配要求を訴える人々の主張見聞きし、一挙に現実に引き戻されそうになる。
  6. それに抗するため、理想化された自分の立場から、再分配要求は「身勝手」で「自己責任回避」なものだと非難する。

これはひとつの仮説であり、必ずしも事実に合致しているとは言い難い。ただ、ここに掲げたプロセスのそれぞれの段階において、「富める人々の代弁者」が非常に合理的に振る舞っていることは見て取れることだろう。
部分的には合理的な事柄を寄せ集めると不合理に陥るというのは厄介な事だが、所詮、神的な知性をもたない人間の「合理性」だから、限界があるのは仕方がない。