あれ?


快楽を感じる機構が、道具である、というのは、明らかである。生来的に備わったそれらは、当然、遺伝上の目的のために備えられているものである。ここまでは当たり前である。
問題は、どこまでが道具なのか、という話で、これはある意味では、人間の意識とかもすべて、遺伝上の道具にすぎない、という話も確かなため、道具である=道具に『すぎない』とは、ただちにはならない。もともと人間において、道具と目的は、完全には分離していないのだから。*1
えっと、明らかでも当然でも当たり前でも確かでもない、と思うのだけど……。

*1:強調はすべて引用者。