フレーゲと靖国参拝

「参拝」の指示対象
靖国問題からフレーゲを連想しているのが面白い。
「私」の指示のメカニズムについてのフレーゲ的説明は賛成できない*1が、批判に対してどのように判断を下すかを考えるよりも前に、批判的意見を構成する言葉の意味や指示対象が、賛否は別にして適切に共有されているかどうかを考慮する必要がある。*2というのは同感。
それにしても、これはいったい何なのだろうか?*3

*1:「私=話者自身」はSinnというより、その前段階だと思う。具体的な発話の場で「私」ははじめてSinnを持ち、そのSinnには唯一のBedeutungが対応するのだと考えたい。

*2:「批判に対して」から「必要がある。」までQタグでマークアップしているのだけれど、どこからどこまでが引用なのか見ただけではわからないのが厄介だ。そのうちスタイルシートをいじる予定。

*3:英語がわからないので読めません。