信じること、信じると述べること


あと、日本人なら「日本に雪が降る」ことを信じる必要はないんですよね。なぜなら、「知っている」から。どっかの赤道直下の国みたいなとこから一度も外に出たことがない人は「日本に雪が降る」ことを「信じる」必要があるのかもしれないですが。
「信じる必要があるかどうか」ではなく、「現に死んでいるかどうか」という観点から考えてみるとどうか。日本人の大多数は、日本に雪が降るということを知っているが、その場合、日本に雪が降るということを信じているのかどうか。
「私は日本に雪が降ることを知っています」というのは奇妙な発言ではないが、「私は日本に雪が降るということを信じています」という発言はちょっと変だ。「じゃあ、あなたは本当に日本に雪が降るということを知らないのですね?」と反問したくなる。
けれど、「信念と知識は排他的である」*1とは一般にはいえないだろう。むしろ、哲学では伝統的に「知識は信念を含意する」*2と考えられている。
たとえば、ある人がこう言ったとしよう。「私は今週末に関東地方で開かれる某作家のサイン会に行きます」と。この時、「関東地方とぼかした言い方をするということは、サイン会場は東京ではないんですね?」と反問したくなる。けれども、一般に関東地方に東京が含まれないということではないし、「関東地方」という言葉に二つの意味があり、広義の「関東地方」は東京を含み、狭義のそれは東京を含まないということでもない。
信念と知識の関係は、関東地方と東京の関係に似ている。ある事柄の中核をなす典型的な事例について、それのみを指す言葉があるとき、あえて広い範囲をカバーする言葉を用いると、中核的で典型的な事例を排除しているかのような含みが生じる。そこで、「私は信じている」と述べる人には「あなたは知らないのですね?」と聞き返し、「私は関東地方に行く」と述べる人には「あなたの行き先は東京ではないのですね?」と応じてしまうのだ。
むろん、この議論は「信じる必要があるかどうか」という引用もとの議論に対して直接吟味検討を行ったものではない。必要の有無について語るためには、必要を生じる文脈を視野に入れなければならず、そのような文脈をここでは一切考慮の外においているので。それはまた別の話。

*1:ある事柄を信じているなら、その事柄を知ってはいない。また、ある事柄を知っているなら、その事柄を信じてはいない。

*2:ある事柄を知っているなら、その事柄を信じている。